映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想 人よりも恐ろしい社会通念の価値観
犯人よりも、周囲の価値観にゾッとさせられます。映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想です。
『ボーダー 二つの世界』などで知られるアリ・アッバシ監督による新作映画。イランを舞台にしてはいますが、デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランスの合作映画であり、撮影もイランではなくヨルダンのアンマンで撮影されたそうです。ラミヒを演じたザーラ・アミール・エブラヒミはイラン出身で、今作でカンヌ映画祭の女優賞を獲得しています。
あらすじだけ見ると、「切り裂きジャック」事件をモチーフにしたよくあるサスペンスに見えますが、モチーフにしているのは実際にイランで起きた連続娼婦殺害事件だそうです。物語のテーマも犯人と捜査の攻防や心理戦を描くことよりも、イスラム教社会が抱える「女性蔑視」をテーマにしたものになっています。
犯人が誰かは、序盤で早々に登場するサイード(メフディ・バジェスタニ)であることがすぐ明かされ、事件の取材をするラミヒと、サイードの日常(とその裏の顔)が平行して描かれる物語になっています。
サイードの犯行自体は、サスペンス物として見るならば、とてつもなく稚拙な犯行になっており、すぐに犯行が露見するようなものになっています。サイード自身も、サイコスリラーの殺人鬼のような悪のカリスマ性みたいなものは微塵もなく、普通であればすぐ退場するマヌケな悪役にしか思えない殺害を繰り返しています。
ところが、この杜撰な殺害でも全く露見しないという事が、この事件の恐ろしさになっています。犠牲になっているのは聖地の風紀を乱している娼婦たちであるということで、さほど力を入れて捜査に取り掛からない警察の姿勢が、ラミヒの取材で明らかになっていきます。つまりは、この社会において娼婦の女性は人として扱われていないという差別意識を描いています。
もちろん、娼婦の女性たちにも止むに止まれずその仕事を選ぶ事情がある姿もしっかりと描かれており、差別する謂れはないのが、こちらの感覚ではわかるのですが、イスラム教の価値観では禁忌を破った罪人のような扱いになっているんですね。
犠牲になる女性たちに責任があるとしておきながら、その女性たちを買う男たちは全く断罪されていないという点も、吐き気のする価値観ですね。犯行を重ねるサイードも、市井の人々も、男の責任には触れておらず、不自然にすら思えるんですけど、それがこの社会にとっては当然の価値観になっています。
女性たちが絞殺されるシーンでの、強烈なインパクトある眼の演技は凄まじいものがあります。眼から飛び出さんばかりの無念を表現するリアリティにより、そこから目を逸らし続けるイスラム社会の価値観の異常性が際立ちます。この眼が、終盤で描かれる或る死とは、対照的な視線の表現になっていると思います。
事件が明るみになり、普通のサスペンスであればここで幕引きになるところですが、この作品に関しては、そこからが本当のスタートになっていると思います。犯人逮捕の場面も、スリリングでクライマックス的なものになってはいるんですけど、その後の法廷でのシーンは、序盤からある「ミソジニー」要素が一気に加速していく展開になっています。
ここでの、サイードの犯行が英雄視され、無罪を訴える世論の声は、実際の事件でもあったそうです。つまりこの事件は、1人の異常者が起こしたものなどではなく、社会の間違った価値観が産み落としたものだということなんだと思います。
実際、サイードという人間も、戦争によるPTSD的な部分、更年期障害的な部分の描写はあるものの、自身の家族に対してはむしろ好い父親として描かれています。それはイスラム社会が異常であるということではなく、どこの国の文化だろうと、どこかが狂えば誰もが殺人者になり得るというものであるように感じられました。
イスラム教社会の価値観が異常という印象を植え付けるものになっている作品ですが、その価値観が大多数とはいえ、そこにマイノリティ的に正しい価値観で暮らす人もいるはずなんですよね(今作のラミヒのように)。イスラム社会の思想が危険という点で止まってしまうという作品でもあります。実際、イランから本作へと少なからず抗議を受けているようですね。
重要なのは、そこからどう変わるべき、どのような方法で変えていくべきかということだと思います。正しいイスラム教社会の在り様を示す作品が、今後出てくることを期待したいですね。
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