映画『ドライブ・マイ・カー』感想 抑えきれずに、わずかだけ溢れる想いを描く傑作
濱口監督作品の神髄を、初めて理解、堪能することが出来ました。映画『ドライブ・マイ・カー』感想です。
俳優で劇作家の家福悠介(西島秀俊)は、妻である脚本家の音(霧島れいか)の事を深く愛している。それが故に、音が他の男と不貞を働いていることにも気づかない振りをし続けていた。ある日、家福は音から、今夜話があると告げられるが、その夜、家福が帰宅すると、音はくも膜下出血で還らぬ人となっていた。音と、音が話そうとしていた事を永久に喪ってしまった家福は、舞台に立つことが出来なくなっていく。
音の死から2年後、広島で行われる演劇祭で、家福はチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』を、様々な言語の役者を使い上演しようとしていた。長年使用する愛車で広島に着いた家福は、演劇祭の主催者から専属ドライバーとして渡利みさき(三浦透子)を紹介される。そして家福は、舞台のオーディションの役者の中に、昔、音から紹介された俳優の高槻耕史(岡田将生)の名を見つける。
高槻が知る音の真実、そしてみさきの柔らかな運転技術と哀しい過去が、家福の心に少しずつ変化を与えていく…という物語。
村上春樹の短編集『女のいない男たち』に収録されている『ドライブ・マイ・カー』を原作として、『ハッピーアワー』『寝ても覚めても』で知られる濱口竜介監督が映画化した作品。原作としているのは『ドライブ・マイ・カー』だけではなく他の収録短編のエピソードも交えているようですが、上映時間は3時間にも及ぶため、大部分がオリジナル脚本で描かれていると思います。
原作は読んでおらず、何となく苦手なイメージを感じていたので、村上春樹作品自体を読んだことがありませんでした。余談も余談なのですが、何年か前にカウンターのお店で酒を呑んでいた時、居合わせた客同士で文学談義になった際に、「村上春樹好きそうなのに読んだことないんだー」と、初対面の女性にタメ口で言われてから、もう読まなくてもいいと固く思うようになりました。
濱口監督作品は、『寝ても覚めても』を観ただけですが、その登場人物には全く感情移入が出来ず、ちょっと嫌悪感を持って観ていたんですよね(主演2人のスキャンダルが出る前なので、その意識はないはず)。けれども、演出や心理描写は超一流で、なぜこんなにつまらない人間を丁寧で丹念に描くんだろうかと不思議な思いがありました。
ただ、ようやく今作でその不思議な魅力が理解出来たような気がします。
正直、今作品でもあまり感情移入出来る登場人物は出て来なかったんですよね。嫌悪感を抱くほどではないんですけど、何しろ冒頭から1時間かけて、気取った会話の夫婦がイチャイチャする生活を見せられるというのもキツいところではありました(未読なので推測ですが、こういうのが村上春樹作品空気なのかもと感じました)。けれども、そこを乗り越えてこの作品空気が馴染んでくると、その長尺をかけて描く丁寧さがとても印象深い作品に感じられてくるんですよね。
上映時間の全体が3時間と、かなりの長時間作品なんですけど、全く無駄がない印象となっていて、ちゃんと全てのシーンに意味があるように感じられました。
物語の主幹となる部分は、家福とみさきが少しずつ寄り添って、徐々に関係性を深めていくというものだと言っていいと思いますが、その「少しずつ」「徐々に」というのがただの慣用句ではなく、本当にわずかな距離の縮め方なんですよね。普通の作品ならドラマ的手法で、話を進めるために劇的に距離が縮まっていきそうですが、そういう省略をせずに、すごく丹念に2人を描いています。
ただ、現実には人と人が本質的に心を許し合うのって、すごく時間がかかるものだと思います。劇中に登場する高槻のように、上っ面だけで仲良く出来るタイプの人でも、心の奥から認め合える人との関係構築は、本当は物凄く時間が掛かるものだと思うんですよね。だから、この作品の時間の掛け方にすごく説得力が生まれるんだと感じました。
今作を通して描かれているものは、劇作品としてはものすごくありふれた感情だと思うんですよね。死別した妻と娘への哀惜や、虐待に近い育て方をされた母親への愛憎も、愛する人と関係がある人間への嫉妬も、今までの物語作品が描いてきたありきたりの設定や感情だと思います。
けれども、この丁寧な人物描写や、時間を掛けた画面演出、延々と続く運転シーンが、それらをありふれたものに感じさせないんですよね。その丁寧さが、みさきの運転技術のようでもあるし、長い作品時間が、家福の愛車が走行する距離と重なるように感じられました。
そして、家福が手掛ける舞台作品も、他人同士の関係性という象徴になっているようにも思えました。家福の作る舞台演劇は、演者それぞれが違う言語で台詞を言いながら、スクリーンに台詞字幕を映すという方式で、これが本当に観に行ってみたいと思わせられる演出でした。その舞台稽古の場面も、理に適っているというか、この稽古方式だったら確かに違う言語の役者同士での芝居が可能だと思わせられます。
この違う言語を使用しているというのが、他者との距離感を描いているように感じられます。人と人は、違う言語で会話するように分かり合えないものだし、その逆説として、違う言語を使っていても、分かり合える瞬間があるという表現になっているんだと思います。
その一番の象徴が、韓国手話を操る役者イ・ユナ(パク・ユリム)と、その夫コン・ユンス(ジン・デヨン)の夫婦なんだと思います。夫婦の家に、家福とみさきが招かれるシーンが、ものすごく暖かくて良い場面になっているのですよね。妻の声が出せなくとも、夫との心が通じ合っているというこの夫妻の心地よい空気感は、前半で描かれた家福夫妻の仲睦まじいけど性的で歪な空気とは、全く異質なものとしての対比になっていると思います。
登場人物たちの距離が縮まらないのと比例して、家福とみさきも本当に感情を表に出さないんですよね。西島秀俊さんの演技は、今まで正直あまり上手いと思ったことはなかったんですよ。シリアスなハードボイルド演技か、真面目な好青年役かという感じで、バリエーションが少ないというか。ただ、今作での無表情の中にある揺らぎのような表現は凄くハマっているように感じられました。『寝ても覚めても』の東出昌大さんの演技もそうでしたが、濱口監督は、虚無感を感じさせる俳優の使い方が本当に巧みですよね。
さらに今作で素晴らしいのはみさき役の三浦透子さんですよね。徹頭徹尾、無表情・無感情を貫きつつも、冷たくなり過ぎずに気遣いがある部分を演じていて、絶妙な優しさと哀しさを表現していたと思います。
終盤で、みさきが育った家の跡地での家福との会話シーンで、ずっと無表情だったみさきが、わずかに声を震わせて過去の想いを吐露するんですけど、このわずかな震えだけで、どれほど哀しかったのか、辛い思いをしてきたのかが感じられるようになっているんですよね。この場面、本当に名演だと思います。
そこから、ラストへの『ワーニャ伯父さん』の上演場面に移り、ここでのメッセージもありふれた道徳的なものが並べられていくんですけど、ものすごく感動的に感じられるんですよね。今までの物語が、きちんと「哀しさとも向き合って生きる」というメッセージに繋がっているんですね。つまりは、チェーホフがこの物語を書いた時代からメッセージは変わっておらず、現代に至るまでも、物語というもの自体は、こういうありふれたメッセージを伝えるために、形を変えて繰り返し生まれているのではないかとすら思えるんですよね。
遠回り、遠回しの極致のような作品だと感じました。でも、遠回りしても道は続いているので、車は到着するし、遠回しですれ違い続けても、想いは伝わるし通じ合うということを描いていると思います。
そういえば、『孤狼の血 LEVEL2』でもメイン舞台が広島県ですが、あの作品で、銃を撃ち合いながらカーチェイスをする道路が、今作でも普通の走行シーンとして登場していて面白かったです。あちらはひたすらに感情の暴走でしたが、今作はひたすらに感情の抑制なんですよね。
2021年の邦画は傑作揃いですが、今年ベスト候補に挙がる一つですね。カンヌ映画祭4冠というのも納得です。濱口竜介監督の才能に恐ろしさを感じるほどの傑作だと思います。