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手土産なしで、人に会うのが怖かった

手土産問題

友達と、スペインバルで女子会をした。
さっそく本題だが、私は手土産やプレゼントを持たずに、人と会うことができない。女友達や、義理の両親、実の両親にだってそうだ。

私に「会いたい」と言う人がいたとき、「相手は私になにを期待しているのだろう」と身構える。もっというと、「相手は私が差し出す何に期待しているのだろう」そんな感じだ。

そして私自身から生み出せるものには自信がないから、街にあふれる素敵なものを選んで、それを相手に差し出せるように準備する。そうして初めて人に会えるのだった。


ただそこに「いる」ということ

私は人に会うことになると、そんな手土産問題にいつも頭を悩ませる。気づけば、だんだんと人間関係がうとましくなっていた。そんな日々のなかで、以下のような一節を見つけた。

おそらく僕の人生は目的達成的な do ばかりであり、
無目的な be になれる場面が極端に少ないのではないかということだ。

平熱のまま、この世界に熱狂したい / 宮崎智之

ここでいう、「do」と「be」は以下のようなものだと捉えている。
たとえば、海にいったとき。
「be」…海をきれいだなと眺めている「状態」を表す
「do」…泳いだりBBQをしたり、海でする「行動」を表す

友達に会いたい、と思うとき、私は友達が何をしてくれるかといった「do」を求めているわけではない。友達は今どうしているだろう?と近況が気になって、会いたい、と思うのだ。つまり、求めているものは相手の「状態」である「be」だ。

きっと、親や友達も「会いたい」と私に言ってくれるとき、彼らが求めていたものは、「be」だった。

少し気が楽になった。

***

そして、新しく気付いたこともある。
いつまでもプレゼントをあげる「do」を続けていると、いつのまにか「プレゼントをくれる人」という「be」に変換されてしまうということだ。次第に私の周りには、かりそめの「be」を求める人が集まってきて、いつまでも私は苦しいままだろう。

ふり返ると、私はいつも仲良くなりたいと思う人となかなか親密になれないくせに、私の好意を搾取するような人ばかりがまわりに集まってしまうことがよくあった。人からは「みなみは誰にでも優しくてえらいね」と言われ、ほんとうに仲良くしたい人とは距離が開き、「ぜんぜん違うのに」としばしば頭を悩ませた。

***

あなたの「be」を教えてよ。
そう言ってくれる人がいることはとても幸せなことなのに、相手のその想いに気付かずに、「do」しなきゃと義務になって、会うこと自体に腰が重くなってはいないだろうか。

相手が私の「be」を求めてくれるのであれば、「あなたに会えてうれしい」という心からの「be」をもっともっと素直に表現したい。もしかすると相手が一番に求めているものは、きっとその表情だったのかもしれないから。


良いお年を、願いを込めて

スペインバルでの女子会では、結局互いに手土産を交換して、私たちは似た者同士だなと、くすぐったくなる。

エビもパエリアもオシャレなお酒も、全部全部おいしかった。けれど、この料理たちがふたりの間になくたって、この関係はきっと続くよと、伝えたくなった。

いつかふたりが手ぶらでファミレスに集まって笑いあえたとき、私たちにはどんな「be」があるのか楽しみで、「よいお年を」と帰路についた。

相手にとって「良い年」になりますようにと願うこの文化が、私は好きだ。たとえ彼女が何を成し遂げなくても、幸せだと思える瞬間が少しでも多いといい。私自身ももちろんそうだ。

Hola!(オラ!)

もうすぐクリスマス🎄

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深瀬みなみ
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