『銀の匙』中勘助
「ふたをするとき ぱん とふっくらした音のすることなどのために今でもお気に入りのもののひとつになっている。」
解説の川上弘美さんも触れていたけれど、冒頭部のこの文章の、なんて優しく美しいことだろう。
子安貝や椿の実、幼少期の子どもの心を和ませたであろうこまごましたもの、そして伯母さんの銀の匙。それらがコルク質の小箱に入っている図を想像する。きっと主人公の心を和ませる、当人にとっては世界で一つきりの大事な小箱だろう。
毎年夏になると本屋の平台に展開される文庫フェアで、この『銀の匙』は殆ど必ずと言っていいほど見た。見たことはあるのに今まで一度も読んだことがなかった。題名からどんな物語なのか想像もつかず、今年に入ってようやく読んでみたいという気持ちになって手に取った。
きっと、学生の頃に読んでいたら分からなかっただろう、作者の幼少期を題材に綴られる日常の、ありふれた様子とそれを捉える独自の繊細な視点、そして清潔な文章によって、青い涼しい風を浴びるような心地がした。
「生きもののうちでは人間がいちばんきらいだった」
という主人公は病弱な生まれで、かつ人見知りで臆病な性格だ。読んでいてこれは育てるのが大変だろうと思うのだが、彼には「伯母さん」がついている。迷信家で大のお人好しで、気弱な主人公のためにこまごまと、なにくれとなく世話を焼いてくれる。
この伯母さんが、わたしには自分の祖母を思い起こさせて幾度となく切ない気持ちになりながら読んだ。わたしの祖母もわたしが居ればあれこれと気を回して世話を焼いてくれる人だ。思春期の時期にはそれに辟易したこともあったけれど、思い返せばなんと有難いことだろうと、今更ながら平伏する思いだ。
こうして身内に重ねて読んでいたせいか、物語終盤の伯母さんとの別れの部分は思わず泣きそうになりながら読んでしまった。
伯母さんからの愛情をたっぷり受けながら、ひ弱な少年は徐々に成長していく。近所のお国さんや、嫌々ながら上がった小学校での勉強、人間関係、お惠ちゃんへの淡い想い……そうしたものを経て、主人公は外界との関わりかたを身につけていく。
日清戦争の時代に突入し、そこで繰り広げられた教師とのやりとりなど、ひ弱な幼子だった主人公とは思えないくらいの成長と確固たる価値観を感じさせる。
「外界との関わりかたを身につけていく」と書いたけれど、誰とでも仲良くとか、人付き合いを細やかに、とかいうのではない。主人公は主人公の自我、考え方や理想諸々を抱えて、それでもなお生きにくい世間を何とかかんとか渡っていっているように、わたしには感じられた。
『銀の匙』は主人公の成長物語であり、その成長の在り方は、今日を生きるわたしたち(特に、「生きにくい」と感じている人々)にとって、清澄な朝日の一筋を含んだ、輝きのある作品だと思う。
今読めたことが、とても嬉しい。
(2020.07.16 昼読了 角川文庫 角川書店)
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