『濹東綺譚』永井荷風
永井荷風の作品を初めて読んだのだけど、とてもとても好きだった。
読みはじめて少しした辺りから「え~………いい………いいぞ………これはいい…………好きだ……」となり、にわか雨の出会いの場面でもう堪らなくなった。
「わたくしは多年の習慣で、傘を持たずに門を出ることは滅多にない。……さして驚きもせず、静にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方から、「檀那、そこまで入れてってよ。」といいさま、傘の下に真白な首を突込んだ女がある。油の匂で結ったばかりと知られる大きな潰島田には長目に切った銀糸をかけている。……」
玉の井の猥雑で狭く、活気に満ちた横町に降る驟雨、その中で、主人公の傘の下にいきなり首を突っ込んでくる無遠慮と気安さが、愛嬌のある女性としてわたしの中の「お雪」像を一瞬で作り上げた。
可愛い人なんだろうな、と思う。
残暑の頃に、氷白玉を二人で食べる場面もいい。
ちょっと拗ねた風の女と、「白玉が咽喉へつかえるよ。食べる中だけ仲好くしようや。」なんて言ってしまう主人公とのやりとりは、そうした世界で生きる女と男の会話としてはさっぱりとした風情と人情味がある。
永井荷風の文章には、独特のテンポと情感がある気がする。『濹東綺譚』は主人公大江匡の目線を通して、お雪とのやりとりや季節の移り変わりが美しく描写されている。街の雑踏や景色に関する淡々とした描写も、近代化によって失われた町の景色を惜しむ感がうっすらと漂う気がして好きだった。
雨の頃に始まって、冬の訪れと共に終わった、二人の関係は恋だったのだろうか、と思う。
二人にはお互いを好ましく思う気持ちがあったのだろうけれど、大江はそれを自ら抑制し、お雪から離れてしまった。その後彼女がどうなったのかは詳しく書かれていない。物語的「落ち」がつけられていないところに、それが永井荷風が実際に取材し出会った女性とのやりとり、その現実味を感じさせる。
それにしても、季感と心情の描写、そのリンクが美しい作品だったな…。
あと、ツイッターでも言ったけれどこの作品を読んで、わたしはお雪のような「芸者や遊女の、あえて無遠慮でいく気安さと愛嬌のある(なお、表に出さないだけで当人たちにはそれぞれの考えがある)」女性登場人物に頗る弱いことを実感した。
いい女がいる小説は、いいね……
(2020.07.29 旅先の宿にて読了 岩波文庫 岩波書店)
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