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「落下の解剖学」どっちに転んでも、エラいよダニエル。

どうも、安部スナヲです。

先の米アカデミー賞で脚本賞を受賞した、ミステリーのようでミステリーでない??「落下の解剖学」観て来ました。

主人公サンドラ(ザンドラ・ヒュラー)は、夫のサミュエル(サミュエル・タイス)、視覚障害を持つ息子のダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)と雪山の山荘に暮らしている。

ある日、家の前で頭から血を流して倒れているサミュエルをダニエルが発見、既に息絶えていた。

出典:映画.com

はじめは転落による事故死と思われたが、検死によって他殺の可能性が浮上、妻であるサンドラに疑いがかけられる。

物語は法廷劇へと進み、夫婦間の確執やダニエルが障害を負う経緯などが浮き彫りになるなか、小説家であるサンドラの欺瞞も見え隠れする。果たして真実の行方は…

難解というほどではないが、いちいち読み取りや解釈を求めてくる映画ではある。

「落下の解剖学」という、物理的な落下と人間的な落下の意味を兼ねている、この時点で既に面倒臭い(良い意味で)そのタイトルにも仄めかされているように、この映画はミステリの装いでありながら、ミステリに着地しない。

とはいえ、余程ヒネくれた人でなければ、サンドラがサミュエルを殺したか否かに焦点をあてる見方をするだろう。

実際、途中までは状況証拠や動機が積み上げられ、事の真相に迫るという王道的なミステリーの轍を踏みながらハナシは進む。

ところがふと気がついたら、謎解きは別の方向に転換させられている。そこがミソ。

サンドラとサミュエルの〈こじれ〉自体は、一見よくある夫婦間のすれ違いだが、内情が明らかになるにつれ、その途轍もない屈折に苦り切ってしまった。

率直に、サンドラの傲慢さと図太さに、ほとほと呆れたのだ。

出典:映画.com

彼女は被告の立場から、夫婦というのは愛憎入り混じってあたりまえだと主張する。まあそれは至極ごもっともだと思うのだが、一方で、殺人の動機が疑われそうな事実は、隠蔽や嘘で誤魔化す小賢しさがある。

一歩も引かない構えで正当性を主張するが、自分は浮気もするし、サミュエルのアイディアを拝借して小説を書いていたりする(そのことに何の呵責もなく居直るところがまたむかつく)

そのくせドイツ人の自分がフランスに住むことについては、恰もサミュエルの為にリスクを背負ってあげているみたいな被害者マウントも取ってくる。

いちばんドン引きしたのは、ダニエルが視覚傷害者になった要因について、サミュエルを責める姿勢。

客観的に見て、あれは夫婦の決定で、一方的にサミュエルを責めるのはおかしいのであって、どんだけツラの皮厚いねんこの女!と言わざるを得ない。

だからやっぱりサンドラはクロだ!というと、またハナシは別なのだが、どちらかというとダニエルに寄り添っているのはサミュエルで、サンドラの方が、いわゆる父権主義的な性質が濃い。

可哀想なのはダニエルだ。

映画の前半までは、例えば裁判での供述内容が途中で変わったりして「この子は母を庇ってる?」或いは「実は決定的な証拠を掴んでる?」みたいな疑いを持って見ていたのだが、彼は繊細で健気な、ごくフツウの11歳の男の子だ。

両親とて人間なのだから、子供に見せないドロドロがあるのもしょうがない。

だけどあのように、法廷の場で、容赦ない厳格さで明文化されたドロドロを突きつけられるのはあまりに酷だ。

フツウの子供は、まずあんな目には遭わない。

そりゃ11歳にもなれば、子供なりに色々受け取るものもあるだろうが、フツウなら「もしかしたらウチの親ってそうなのかも」という部分は曖昧なまま蓋をするものだ。

あんなふうに論われたら、それこそ身も蓋もないではないか。

この映画でもっともグサリと刺さったのは、法廷監視員のマルジュ(ジェニー・ベス)が、最後の証言を目前に揺れるダニエルに言った「真実がわからない時は、自分で決めるの」というセリフ。

両親の命運にかかわる〈真実〉の選択を子供に迫るのは酷過ぎるが、結局、人生を先に進めるためには、どちらかに転ばせないといけない。

ダニエルは逃げなかった。エラいよ。

出典:映画.com

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