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闇バイトと1つの詩。それと僕の闇バイトに落下しそうだった話。
あなたは石。私は風。とどのつまり交わらないと言うことだ。
you are a stone I am a storm. In short, they do not intersect.
フランスの詩人
1883年
僕らは馬鹿を断罪する。そしてある人は啓蒙しようとする。
職場を学校を家庭を思い返して欲しい。
あなたもたくさんの馬鹿を見てきたはずだ。ネット空間でも構わない。馬鹿を挙げろと言えばいくらでも列挙することができるだろう。
僕もあなたも地獄のような馬鹿に出会ったことがあるはずだ。ヤバいやつというのはどこにでもいる。今noteを書いている本人ですら恐らく落合洋一さんや田端慎太郎さんから見れば(あなたから見てもかもしれないが)ヤバい馬鹿なのだから。
ちなみに今2回ほどタバタさんのたばたが誤変換されて田畑になったり田端になったりして、「あっれー?どっち正解だっけ??」となるくらいには頭が悪いし、金玉キラキラ金曜日!で笑えるくらいには知能指数が低いので安心して読み進めて欲しい。
この記事はおそらくあなたも読んだことだろう。
簡単に言えば、
"闇バイトに騙されたりする人は本当に馬鹿だ"
"知能の差がありすぎる"
と書いている。意訳である。著者はそんな人たちが撲滅されるべく潜入をしたりしているので全くもって頭が下がる思いだ。
そういえば、と思い返すエピソードがあるのでここに開陳したいと思う。
僕の中学生の時の思い出。
夏の暑い日に先輩と2人で歩いていると、「おーい!君らも一緒に食べない?」と明らかに周りの人に迷惑をかけて生きてるんだろうなーという4人組に声をかけられた。
僕はめっちゃ怖いので「あざっす!お気持ちだけいただきます!」と言って交わそうと思ったが肩を組まれたので心の奥底で「あっ、終わった。」と思っていた。
すると先輩が「〇〇さん。今日は僕ら用事があるんですよ。申し訳ないですけどまた今度。」とキスするんかなと思うくらい近くで喋っていた。
つまり僕はそこから先輩のおかげで逃れられたのだ。先輩には心のそこから感謝したし、あんたも怖いと心のそこから思った。
そのあと先輩からさらに恐怖のドン底に突き落とすような話を聞いた。雨穴さんの本より恐怖した。事実は小説よりも奇なりとはよく言ったものだ。
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「あのくれようとしたもの全部盗品なんだよ。それで嬉しそうに飲んだり食べたりしたら最後、あいつら"食べたよな?じゃあ仲間だよな?"って盗みを強要するんだよ。だからお前も断れよ。」
と言っていた。底というのはいつかうっかり入ってしまうくらいにそこかしこに入り口があるのかもしれない。
彼らは今はどこに居るのかわからない。ヤクザになったと言う人もいれば薬中で死んだと言う人もいる。これからの人生で出会わないことを願うばかりだ。
犯罪者というのは風体はともかくとにかく優しい。最初はとっても優しいのだ。言うことを聞く人間にはとっても優しい。
なぜならば駒が欲しいからだ。自分の思い通りに動く駒が。
キンタマキラキラ金曜日
ところで僕らはなぜ馬鹿を毛嫌いするのだろう?馬鹿な話はとっても楽しいのに。キンタマキラキラ金曜日やちんちんフラフラフライデーと言っているとなんだかウキウキしてくる。僕だけかもしれないが。
そして人を揶揄する、つまり悪口というのもとっても楽しい。露悪的な人というのは人気もでる。悪口、毒舌はいつの時代も人気のコンテンツだ。
ショーペンハウアーだってこんな文を残している。
書く力も資格もない者が書いた冗文や、からっぽ財布を満たそうと、からっぽ脳みそがひねり出した駄作は、書籍全体の九割にのぼる。評論雑誌は当然、それらを容赦なくこらしめ、書きたい気持ちにまかせてペンを走らせる詐欺まがいの売文行為を阻止しなければならない。
読書について
この部分で僕はとんでもなく笑った。ショーペンハウアーは結構他人の悪口を書いている。読書については長いがおすすめだ。真面目な話なのだがウィットにとんでいて面白い。
悪口やシモネタ、うんこちんこの話は僕らを愉快な気持ちにさせる。この2つは現代においてとっても最高のトピックだと思う。現にYouTuberもこの系統の人が人気を博すことが多いのだから。
そう。僕らは褒めること、称賛することに対する意見の出し方というのを難しく感じてしまう。
だがしかし、人からよく見られるのは人を褒めることに違いない。しかし僕らは人を褒めることや論評することを難しいと感じる。
「知識が足りない。」
「面白いと伝える語彙がない。」
だからこそ安易で簡易な表現で職場の人を揶揄することを楽しいと感じたり、マスコミに批判を受けている人を叩いて、叩かれていることに関してもっとやれ!と思ってしまう。シャーデンフロイデが進む。
批判は「どこが悪いと思った?」と聞かれたらポンポン出てくる。しかし称賛は「どこが良いと思った?」に対して窮してしまう。称賛は語彙が少ないとできないし、知識が足りないと難しいと感じているからだ。
だからこそうんこちんこ、誹謗中傷は僕らにとって安易で楽しいコンテンツになるのだ。
馬鹿という安易なミーム
馬鹿という語源は辞典に載っていて、正しそうなものには2つある。
モーハ(真理に暗い物、無知な物の意)という仏教用語からきている説と、はか(儚い物)という説だ。
他にも「鹿を馬と言った話」のようなものなど結構いろんな説がある。
つまりは馬鹿という言葉はずいぶんと昔からあるのだ。
僕らの先人たちはなぜその言葉を作ったのだろう?言葉の成り立ちには必ず意味がある。ちんこだって元は珍宝(珍しい宝)から来ている。
つまり童貞は珍しい宝の持ち腐れということだ。とっても悲哀に満ちている。
馬鹿という単語は今も残る言葉だ。ということは残す価値があるということと捉えられる。古語は消滅していくのが摂理だからだ。
"をこなり"が残っていないのもその摂理だろう。
行きかかりてむなしう帰らむ後ろ手も、をこなるべし」
[訳] (明石まで)出かけて行って、無駄骨を折って帰ってくる後ろ姿も、間が抜けているだろう。
馬鹿というのは昔からある。なぜその語彙が現代まで残るか?それは使用方法が簡易で便利だからだ。簡便なもの以外は淘汰される。まじ卍や激おこプンプン丸が残らないのは簡便な語彙ではないからだ。個人的には激おこプンプン丸はちょっとだけ残って欲しい。
馬鹿がどのように簡便か?それは他人の支離滅裂に思える行動を断罪することを端的に言い表せるからだろう。
僕らは基本的にめんどくさいことが嫌いだ。だからこそ相手に対して、どのように考え方が違い、どんなふうに前提が違うのか?そしてそこから双方に起こりうる衝突や利害相反を相手にわからせる。ということはとってもめんどくさい。
だからこそ簡便な語彙である"馬鹿"という言葉を使い楽をして相手を断罪しているのだ。
本来馬鹿と呼ばれる人は常識の範疇から逸脱した論理構造であるとか、前提の相違の話しである。
それもその場所その場所においてという前提もつく。そのような思考体力のいる行為を滅して僕らは相手に馬鹿という一単語でレッテルを貼り断絶するのだ。
例えば、闇バイトは前提としてお金が沢山貰えて楽であり、リスクとリターンという概念が無いことが問題だ。必ずリターンが大きいものはリスクがある。その前提が欠如しているのだ。それを馬鹿と断罪しても意味は無い。
知能ではなくおそらくは知識の差だと思う。思考するという体力の差かもしれないのだが。
つまり僕らが一言で馬鹿と断罪する人々というのは思考様式の違いだけの話であり、知能の話ではないのだ。
論理構造、前提知識、これらの思考様式が僕らには理解できないものが世の中にはある。それに馬鹿というミームを与えて楽をしているだけなのだ。
そしてそこには両者は決して交わらないという大きな問題を孕んでいる。
ダンスフロアーの華やかな光
あなたは社交パーティーがあるとして(異業種交流会でもいい)ジーンズで行くだろうか?
恐らくビジネスカジュアルのような服装で行くのでは無いだろうか?で、なければ浮いてしまうからだ。そこかしこにマナーとしてのドレスコードというものがあるためだ。
面接にジャージで行くのはNGだし、カジュアルな場所にきっちりしたスーツで行くのもなんだか場違いだろう。中小企業は面接にジャージで来る人は結構いるのだけれど。
兎にも角にもドレスコードというものがこの世には存在する。それは服の話だけではなく実は思考様式にもドレスコードがあるのだ。
経営者の人は経営者としかつるまない。なぜならば考え方、前提がサラリーマンとは違うからだ。話が合わなくなってしまうのだ。
僕らは脱税のスキームも知らない、興味が無いし、給付金の類あるいはどのように事業を行っているか?などに興味が無い。
逆に経営者はサラリーマンの悲哀のような意見が通らないことや、給与が上がらないのような悩みや愚痴の意味がわからない。
これは経営者に近くなるほど感じることである。ままならない両者は交じることが無いのだ。コミットメントの度合いなのかもしれないが、前提も論理構造も違うのだから当然だ。
つまりは思考のドレスコードが両者(経営者とサラリーマン)が両方の交わりに参加するには必要なのだ。
場所や場面に応じた相応しい前提、論理構造が無ければその集い、集団、コミュニティには加入することができないのだ。
だからこそ経営者はサラリーマンを馬鹿と呼び、サラリーマンは経営者を馬鹿と呼んで簡単に断罪するのだ。
それは両者の思考のドレスコードが違いすぎることによって起きることなのだ。
つまりは冒頭に記した詩と同じになってしまう。
あなたは石。私は風。とどのつまり交わらないと言うことだ。
you are a stone I am a storm. In short, they do not intersect.
これは経営者とサラリーマンだけの問題ではない。自己啓発が好きな人と自己啓発を馬鹿にする人、夫と妻、子持ちと子なし、僕らには様々な種類の思考のドレスコードがあるのだ。
そしてそれらが混じり合うには思考のドレスコードを変えるしか無い。経営者に近づきたければそれを、従業員に近づきたければそれを。妻に近づきたければ…
それが両者の距離を近づける唯一の方法なのだ。つまりは両者をつなぐ唯一のブリッジでもある。
相手を馬鹿と断罪することはとても簡単で心地よい。しかしながら馬鹿という安易なミームで切り捨てられるほど人の知能は大差ない。
闇バイトの雇用主は知能で言えば高いと思う。それに騙される人を馬鹿と呼称し、断ずるのはとっても安易な思考でしか無い。
それと同じく経営者を馬鹿と断ずるのは僕にとってもあなたにとっても簡単だ。しかし、僕らを自由にするには必要なドレスコードであることを理解しなければならない。
自由とは何処にでも行けることだ。思考も自由であらねばならない。それにはドレスコードが必要だ。僕らは風でも石でもあってはならないのだ。
最後にこの冒頭の詩の読み人は僕である。闇バイトに騙される人もそんな気分かもしれないと思いを馳せることを結びとしたい。
それでは、また、水曜日。
あどりでした。
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