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ショートエッセイ:皇帝ナポレオンの息子、ナポレオン2世

彼は、皇帝ナポレオン1世の唯一の嫡出子だった。
そして1815年6月22日から7月7日までの間、父の跡を継いで、フランス人民の皇帝の位についていた。
それ故にナポレオン2世と呼ばれる。

ナポレオンは跡継ぎを得るために、子供を産めない妻ジョゼフィーヌを離婚して、ヨーロッパで最も高貴な家柄のハプスブルク家から皇女マリー・ルイーズを娶った。
ハプスブルク家は多産の家系でもあり、彼女は1811年に玉のような男子を産んだ。
ナポレオンは狂喜した。
名前はナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ。
母に似た青い瞳を持つ金髪の可愛らしい赤ん坊だった。

ナポレオンは息子を「ローマ王」と称した。これはかつて神聖ローマ帝国の皇太子の称号だった。この時代、神聖ローマ帝国はナポレオン戦争によって事実上消滅となり、ナポレオンはフランス帝国がその後継者であると宣言したのだ。

しかし、ナポレオンの敗北が、この子の運命を大きく変えた。
ナポレオンは退位を余儀なくされ、亡命していたルイ18世が王政復古によりフランスに戻り即位するまでの15日間、この子は形式的にナポレオン2世としてフランス皇帝だった。わずか4歳だった。

マリー・ルイーズは子供を連れてウィーンに戻った。
ウィーンの宮廷ではナポレオンというファースト・ネームはなかったことにされ、フランツと呼ばれるようになった。
家庭教師による授業は全てドイツ語で行われ、フランス人としてのアイデンティティを徹底的に忘れるよう教育された。7歳の時にはライヒシュタット公の名を与えられ、ハプスブルク家の一員となるべく育てられた。実質的には囚われ人であったのか、ウィーンから外に出ることも殆どなかった。
流罪になった父親のことは、飽くことを知らぬ野心が彼を没落に導いたと教えられた。
それでもライヒシュタット公は父親を強く尊敬していた。1821年、ナポレオンの訃報がセント・ヘレナ島より届いたとき、彼は毎日泣き続けた。まだ10歳だった。

1824年、ライヒシュタット公13歳。
背が高くほっそりとした、優雅な貴公子に成長した。
フランス始め、幾つもの国からライヒシュタット公に国王になって欲しいという要請が来た。しかし、祖父フランツ1世と宰相メッテルニヒにはナポレオンの息子を国外に出すという考えは毛頭なかった。ライヒシュタット公は相変わらずウィーンで籠の鳥であった。
そして、ライヒシュタット公はいつの間にか初期の結核に罹患していた。
結核はこの時代、不治の病であった。

彼は父ナポレオンに関する書籍を読み漁った。
祖父フランツ1世から陸軍大尉に任ぜられ、母から、かつてナポレオンがエジプト遠征で佩刀していたサーベルを与えられた。
かつての父の部下、マルモン元帥から心行くまで父の話を聞いた。
将来は、父のような軍人になりたい。
ハンガリー第60連隊の大隊長に任じられ、軍務に没頭する彼を、ひたひたと結核が蝕んでいく。

1831年。20歳。結核が悪化してひどく痩せたライヒシュタット公は、シェーンブルン宮殿において療養生活を余儀なくされるようになった。彼は発熱して、絶え間ない咳に苦しんだ。
病室は、かつてナポレオンがウィーンとシェーンブルン宮殿を占領した時に居室とした部屋であり、父が使った寝台にこの身を横たえている。それがライヒシュタット公にとっての誇りであり、慰めであった。

気候の暖かいイタリアで保養する話も出たが、フランツ1世とメッテルニヒが許さなかった。ライヒシュタット公のボナパルト家直系の血は絶やさなければならない。フランツ1世は孫を愛していたが、祖国オーストリアのためにはいかなる犠牲をも払うのが、彼の信念だった。

マリー・ルイーズが駆けつけてきた。
枕元で彼女が跪いて付き添う中、ライヒシュタット公は死んだ。

彼の棺は、ハプスブルク家の霊廟が地下にあるカプツィーナ教会に運ばれた。後にその隣に、母マリー・ルイーズの棺が置かれた。死後にして、母子は共にあることができるようになった。
しかし、100年以上たって、彼らはその眠りを妨げられることになる。

1940年、ヒトラーがパリに入場した。
ナポレオンに心酔していた彼は、既にナチス・ドイツの支配下にあったウィーンに眠るライヒシュタット公の棺を、パリのアンヴァリッドに安置されていたナポレオンの棺の傍らに置いてあげようという突飛なことを思いついた。棺は鉄道でパリまで運ばれた。ライヒシュタット公は死んでも尚、国家間の軋轢の被害者となったのである。
今でもライヒシュタット公…いや、ナポレオン2世の棺は、ナポレオン1世の棺の傍に埋められている。一方、マリー・ルイーズの棺は現在でもウィーンにぽつんと取り残されている。

シェーンブルン宮殿には今でも「ナポレオンの間」がある。
家具、机、父と子が共に使った寝台、デスマスクなど、ライヒシュタット公の遺品が展示されている。
その中に、鳥かごがあった。中にトサカヒバリという小鳥の剥製が納められている。ライヒシュタット公が可愛がっていた小鳥だという。
籠の鳥。ナポレオン2世は生前、この小鳥に自分の運命をそっと重ね合わせていたのではないだろうか。

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