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ショートエッセイ:玄宗と楊貴妃

中国、唐代初期は「女の時代」とも呼ばれる。
唐そのものを廃止に追い込み新国家を樹立した則天武后、その娘の太平公主、夫中宗を毒殺し権力を握った韋皇后…。女の時代というよりむしろ女禍の時代と呼ぶべきかもしれないが、その女禍を巧みに一掃して唐を見事に立て直した青年がいた。第六代皇帝玄宗である。

彼は行政の改革を行い、国民の生活の安定に努め、李白など文化人を保護し、貿易を奨励した。首都長安とローマとを結ぶシルクロードを通して、東西世界の様々な文物が流入し、国際色豊かな文化が栄えた。当時の長安に集まったのはローマ人、トルコ人、チベット人、ペルシア人、黒人等。唐人は西方の諸国を胡と呼んで憧れた。玄宗の側近の武将安禄山もまた胡人で、青い目の持ち主だったと伝えられている。人々は玄宗の善政を「開元の治」と呼び、讃えた。しかし、玄宗の愛妃武恵妃が世を去った頃から、歯車はきしみ始める。

気を落とす玄宗に、側近の宦官高力士は、一人の絶世の美女の存在を耳に入れた。当時彼女は玄宗の息子寿王の妃であったが…。しかし一目で彼女に心を奪われた玄宗は、彼女を息子と離縁させ、自分の妃とした。これが余りにも有名な楊貴妃である。楊貴妃は唐美人らしく、音楽を愛し歌を愛し胡の舞いが得意だった。玄宗は楊貴妃を深く愛し、楊貴妃の一族もまた引き立てられた。中でも従兄の楊国忠は政界で絶大な権勢を誇り、やがて安禄山と激しく反目し合うようになる。追い詰められた安禄山は遂に755年反乱を起こす。「安史の乱」という。
安禄山軍は善戦し、押された皇帝側は長安から蜀へと落ちていった。蜀への道は険しい。飢えと疲労に悩んだ兵士たちから怨嗟の声があがる。安禄山を追い詰めたのは誰か。それは楊貴妃とその一族! 兵たちは楊国忠ら、楊家の一族を次々に殺害した。玄宗は兵たちの離反を恐れ、楊一族私刑の正当性を追認せざるを得なかった。しかし兵たちの心は収まらない。まだ楊一族の者が皇帝の傍らに生き残っているではないか。玄宗は涙ながらに高力士に命令を発した。高力士は楊貴妃を梨の木の許に連れて行き、絞め殺した。

玄宗は結局退位に追い込まれ、その息子粛宗が763年にかろうじて安史の乱を平定させる。だが、かつての長安の輝きは失せ、国都の地位と繁栄は洛陽に移る。作家陳舜臣はこのように書いている。
「楊貴妃は、大唐の長安を失わせるために、天がこの世におろした女性のようにおもえる」

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