クズな自分があれだけ走れた理由と、あれしか走れなかった理由
2019年10月19日、僕は長崎県の国境離島・壱岐島で行われた『壱岐ウルトラマラソン』に参加してきた。
自分はサッカーコーチ。マラソン含め陸上競技には縁もゆかりもない。もちろん今までマラソン大会に出たことなんてないし、人生で一番長い距離を走ったのも、おそらく10kmあるかないかくらい。いや、もっと短いかも。
マラソンなんて縁のない自分が、なぜ
「走る」ことに今まで一切関わりのなかったそんな自分がなぜ、いきなりマラソンに出る気になったのか。
今年の3月、知り合いの松井さんを訪ねて初めてこの島に来た。その時、僕はこの島の魅力にどっぷりと、そしてあっさりハマってしまったのだった。
また行きたい、あぁまた行きたい…という思いを日ごと募らせていた頃、
「お、10月に『壱岐ウルトラマラソン』ていう、島をあげてのビッグイベントがあるらしいぞ。そういえば松井さんも言ってたな」と、ふと思い出した。
このビッグイベントに乗っかって壱岐島また行っちゃおうか。
でもマラソンか… うーん どうしよ
マラソンなんて走ったことないし、走るの嫌いだし、走れるわけないし…
しかも100kmの部と50kmの部、これしか選択肢がない!
無理やん
てな感じで最初は全く参加する気もなかったんですが、ふと
「自分はこれまで、何かに挑戦したことってあったかな」という思いに駆られて。
普段、子ども達には「勇気を持つ」「諦めない」「チャレンジする」なんてことをよく言うのに、でも自分は何もチャレンジせず、傷つかない安全な場所と地位に守られながらそう言ってるだけ。
こんなの、ひょっとしたら俺が一番嫌っていた大人の姿じゃないか、と思えた。
普段、子ども達に偉そうに言ってる自分が、まずその自分が、身をもって何かに挑戦する姿を見せなきゃ、最高にカッコ悪いじゃないか。
自分が決めた「何かをする上での行動基準」は、カッコいいかカッコ悪いか、だった。
その瞬間、僕は壱岐ウルトラマラソンの申込み手続きをし、その日のうちに参加費11000円を振り込んでいたのでした。
まぁ、その後でやっぱり後悔したんだけど。
大会前のこと。健康診断に一縷の望みをかける
申込みしてから大会当日までは数ヶ月。毎日走ってしっかりトレーニングすれば、ひょっとしたら50km完走もイケるやろと、当時はタカを括っていた。
しかし僕のことをよく知っている人ならば想像がつくだろうけれど、毎日走るとか、自分にはいかにも無理な話だった。
正直に言えば、夜、仕事が終わってから走る気力も体力も残っていない。これは毎日そう。その日の練習で、僕は結構心身ともに消耗してしまう。これは昔からだ。
ならば朝走れよ、と言われるけれど、朝苦手なのでやっぱり無理っす。
と、まぁこんな典型的な「明日やれることは明日やろう」マインドの人間に、毎日走るなんて修行めいたことを自分で課したのが、そもそも身の丈に合わない話だったのだ。
結局大会直前までの平均で言えば、走ったのは週に一度くらいの頻度。しかも一回2㎞とか。
それくらいの距離で、もう疲れちゃってた。
アカン。もう無理。こんなんで50kmとか、ただ恥を晒すだけじゃないか。
そういえば9月に受けた特定健診の結果がまだ出ていない。もしその結果の中に一つでも異常が見つかったら、それを口実にキャンセルしちゃおうか…
という感じでダメ人間丸出しで検診結果を待っていたのだが、大会の週になって病院から呼び出され、よし、なんでもこい!といろんな意味で意気揚々と結果を聞きに行ったら、病院の先生は開口一番にこう言った。
「はい、久保田さんどこも異常ないですね。稀に見る正常です!」
終わった。
その時点で、壱岐島行きをドタキャンする言い訳は全てなくなったのだ。
頑張れる理由
壱岐島に行く2日前のジュニアユースの練習で、選手達からサプライズで寄せ書きのバンダナをもらった。
こんなの予想もしていなかったので、ほんとビックリしたよ。
『常時時速10㎞ 』笑
旅立つ前日の夜には、平塚のコーチ仲間・佐川さんが「パフォーマンスアップのために」と、知る人ぞ知る《畑中式テーピング》を施しに、横浜までわざわざ来てくれた。
しかもこちらから頼んだわけじゃなく、佐川さんから連絡をしてきてくれて。
さらに言えば、僕が壱岐島に行ってる間の試合や練習は、松永コーチや大和コーチ、早貴さんが代わって担当してくれることになってる。
ヤバい。つい数日前まで『頑張れない理由』『言い訳の理由』を探しまくっていたのに。
気づいたら、頑張れる理由が一気に出揃ってきたのだ。
ふぅ。これはもうやるしかない。トレーニングほぼしてないし50km完走はさすがに難しいのかもしれないけれど、でも、やれるだけやろうじゃないか。
身体中に張り巡らされている畑中式テーピングのおかげで、走れる気が一気に湧いてきたし。
「どうせ無理、たぶん無理、やっぱり無理」
自分の中に棲み続けていたこの言葉を、僕はその場で捨てて踏みつけた。
LAMP壱岐のこと
大会前日。飛行機で福岡まで飛び、博多からフェリーで壱岐島へ。
7ヶ月ぶりの壱岐島。麦焼酎発祥の地、春一番発祥の地。
フェリーから降りた途端にウルトラマラソンの関係者が出口に待ち構えていて、有無を言わさずバスに乗らされ、大会受付センターへと連行される。案内してくれたのが綺麗なお姉さんだったので、有無を言わさず先頭でついて行った。
受付を終えて、この日はもう宿へ。
宿に選んだゲストハウス《LAMP壱岐》の雰囲気が最高で、これだけでもう、あぁ、やっぱり来て良かったなぁと感慨。
このLAMPは2018 年の「リノベーション・オブ・ザ・イヤー」で特別賞を受賞したとか。築90年の旅館をリノベして、ゲストハウスにしたらしい。
ここでいきなりカミングアウトするけれど、僕の夢の一つに「将来ゲストハウスをやる」というのがある。その時のために、このLAMPはぜひ見ておきたい。泊まってみたい。そんな思いも、このLAMPを選んだ大きな理由だった。
LAMPオーナーの勢古口さんにはとても親切にして頂いて。
いろんな融通を効かせてもらったし、壱岐のいろんなことを教えてくれた。
こんなカッコよくてあったかくて、居心地のいいゲストハウスを、近い将来、大磯あたりでやりたい。
その想いが、ますます強まったのだ。
独身女性の皆さん、僕と結婚するとお洒落なゲストハウスのオーナーになれます。
壱岐ウルトラマラソン、いよいよスタート
スタート。ちなみにこの直前にカレー食べた。だってボランティアの中学生達が笑顔で「カレー美味しいですよ!」って勧めてくるから… ちなみにもちろん無料。そりゃ食べるよね。スタートしてからしばらくの間はカレーが抜けなくて後悔したけど。
胃の中のカレー風味と戦いながらも、スタートしてからは思った以上に軽快。やっぱりテーピング効果だろうか。そしてうちの6年生の陸上女子に教わった呼吸法のおかげか、予想以上にスムーズに走れて、良いリズムで入れた。
初めて海が見える場所に出たところ。一気にテンション上がった。
こういう長い道になると「マジか…」となるけど、それもまた壱岐島ならでは。そして平坦な道などほぼ皆無。平坦なのは港のそばを走る時くらいで、そこを抜けるとまたすぐにアップダウンが連続で続く、超ドSなコース設定。
でも、なぜか走れる。普段2㎞走ればすぐに横っ腹が痛くなって「もう今日はおしまい。明日からがんばろ」とクズ全開だった自分が嘘のように、まだイケる、まだイケる、おい、まだまだイケるぞこれ…という、それは自分でも、本当に不思議な感覚だった。
走れた理由
走れた理由・その①… たぶん畑中式テーピング効果。佐川さんLOVE!
走れた理由・その②… 約3㎞ごとに設置されている《エイドステーション》(給水所)の存在。これは本当に大きく、本当にありがたかった。
まず一番最初の給水所で食べた壱岐島産プチトマトの美味しさと言ったらもう…ただでさえエネルギーを欲しているところに、この自然の幸。塩をたっぷりつけて、たぶん5個くらい食べちゃった。一気に塩分&エナジーチャージ完了。
ちなみに僕は子どもの頃から干しぶどうが大嫌いで給食によく出てた干しぶどう入りのパンとか絶対に食べずに机の奥に隠してたんですけど、この給水所で食べた干しぶどうのおかげで、なんとこの歳になって生まれて初めて、干しぶどうを「美味い…」と思えた。ひとつ大人になった。
給水所のチカラはすごい。もしあの場所にピーマンや椎茸があったら、僕の好き嫌いはさらに解消されていたのに。
結局プチトマトはこの最初の給水所にしか置いていなかったのだけれど、給水所ごとに、様々なフルーツや食べ物が豊富に用意されていて。次は何が食べれるかな、という楽しみが、走れるモチベーションとしてかなり大きかった。
走れた理由・③… アミノバリューの絶大な効果。給水所ごとに置いてあるフードは違うのだけれど、どの給水所でも必ず水とポカリとアミノバリューは置いてあって。アミノバリューには絶大な効果があるというのは昔から知っているので、給水所ごとに、僕はとにかくアミノバリューだけを飲むことにした。
本当に効果絶大。もちろん疲れはそれなりには来てるんだけど、とうとう最後まで横っ腹が痛くなることも、息切れもしなかった。アミノバリューの効果、マジ半端ない。自分自身で実感した。来年から、夏の試合は必ずアミノバリューを用意してあげようっと。
走れた理由・④これがいちばんの要因 … 人のチカラ。
島をあげての一大イベントだけあって、スタートから最後まで、とにかくずっと、沿道からの声援を受け続けられたこと。これが本当に本当に、大きな力になった。参加者のゼッケンには、呼んでほしいニックネームと「どこから来たか」が書いてある。僕は当然「くぼっち」と書いてあって、その下には「横浜」と。
おじいちゃんやおばあちゃんが、手を叩きながら「くぼっちさん、頑張って〜」「くぼっち、ファイトじゃファイト!」「あら、横浜から来いさったん。遠いところありがとね、頑張って!」とかとか。
若い人や中学生、小学生からも「くぼっち!頑張れ!」
家の2階から小さい女の子が顔を出して手を振りながら「がんばれ〜」とか。
もう歩こう、ちょっとヤバい…となっても、30m先におばあちゃんが手を叩きながら応援してくれてるのを見つければ、そこでは走るのをやめられないじゃないですか。せめてあそこまでは走ろう、って本気で思えるし、不思議と、そのパワーが体の奥底から湧いてくる。
「くぼっち頑張れ!」と言われると、疲れていても「ありがとう〜」と返せるし、自然に笑顔になれる。そんな自分が不思議だった。とにかく人の姿を見たら、走るチカラがどんどん湧いてきたんだ。
人から応援されるって本当にものすごい力になるんだなということを、ここまで実感できたのは生まれて初めてかもしれない。
給水所でも、ボランティアの中学生達やおじさんおばさん達がみんな優しく声をかけてくれて。いくつもあったあの給水所、全てにもう一度帰りたい。。
調子に乗ってた頃
正直、20㎞も走るのキツいんじゃないか…と思っていたのに。予想以上に早く通過。
走る前から危惧していたのは、時間制限がある関門が設けられていること。50kmの部の第一関門は、32.5㎞地点。ここを、5時間半で通過しないと強制的にリタイヤさせられてしまうという関門。
でもまぁ正直…32.5㎞とか、そこに到達すらできないんじゃないか、と内心は思っていた。でも、20㎞を通過した時点で、まだかなりの時間に余裕があり。これなら、ここからペースが相当落ちたとしても、歩くことが多くなっても、32.5㎞にはイケるんじゃないかという欲と自信が、かなりのモチベーションと元気回復にまた繋がって。
でもさすがに20 ㎞を過ぎてからは1㎞1㎞がとても長く感じて、たった100mですらもう長く感じて、さらにはシューズが合わなくなってきて、右足の甲がすごく痛くなってきて。3分走って1分歩く、というペースに切り替える。その歩きの1分が待ち遠しくて…というローテーション。
右足の甲を庇ううちに足の裏も痛くなり、そのうち痛みがどんどん上がってきて、ふくらはぎ、太もも、さらには股関節も…と、悪循環で全身に痛みが蔓延してきてしまった。3分も走れない。1分走ってまた歩き、また1分走ってすぐ歩き…という感じになってしまって。
でもでも、まだ第一関門通過までには相当の余裕があるというゆとりもあって、気持ち的には全然イケてた。
おいおい、今までほとんど走ったことなかったのに、これ30㎞行っちゃうぞ、無理だと思っていた第一関門、イケるぞこれ、と。
そんなこんなで、26㎞くらいの場所にあった給水所。ボランティアの中学生達とこれだけ軽快にチャラつけるくらいにはまだまだ元気だった。髭、ちゃんと剃っておけばよかった。
彼女達、みんな良い子だったなぁ。「くぼっち!わたし従兄弟が横浜に住んでるよ。観覧車のそば」とか言われた。センター北かな
終わりのとき
ついにきた30 ㎞…!
未開の地、30㎞を超えちゃえば第一関門の32.5㎞もあと少し。そして本当に本当に、制限時間よりも約1時間早く、32.5㎞の第一関門に到着した。
「よっしゃ〜、まさかここまで来るとは。これならもう、リタイアしても誰にも文句言われないし笑われないだろう。我ながら良くやったよ…」
という安心感が一気に出て、ホッとして。もちろんまだまだ進む気でいたし、次の関門地点、40㎞にもたぶんイケる。これ、まさかまさかの完走もあるぞ!
と、給水所の蜂蜜漬けレモンやおにぎりを食べながら、この第一関門でかなりゆっくりと休んだんですよ。椅子に座ってリラックスして、のんびりと。
まさか、それが命取りになるとは。
さ、じゃぁボチボチまた行くか、とこの第一関門の給水所を出発した途端、もう足がまるで動かなくなっていた。走るなんて無理。一歩歩くごとに足に激痛が走り、地面に足をつくだけで「あんあぁっ…!」みたいな変な声が出ちゃうほどの苦しさ。時間をかけて休んだことで、筋肉が完全に固まってしまっていたのだと気づいた時には、もう遅かった。これに関しては、本当に後悔している。さっさとまた走り出せばよかった。
第一関門から歩き始めて100mくらいで「これはとてもじゃないけど走れない。痛すぎて歩くのも辛すぎる。リタイアするか…」と心が折れた。それほどの、これまでの人生で味わったことのないくらいの、耐えられない激痛だった。
でも、道の途中で座り込んでもうずくまっても、救護班のバイクや車がいつ通ってくれるかは分からない。来ないかもしれんし、そういう姿を人に見せるのも恥ずかしい。住民の人に迷惑もかけてしまう。
だから頑張って、次の給水所までは何とか歩こう、と決めて歩き続けた。
でも、ここからが地獄だった。
歩いても歩いても前に進まない。一歩ごとの激痛。1㎞ごとにある距離を示す旗の姿だけを楽しみに歩き続けるけれど、1㎞が、こんなに長いものとは。あの時は本当に、100m進むのにも10分くらいかかっていたと思う。
地獄の果てに辿り着いた、35㎞地点。次の給水所まで、あと700m。
そして
35.7km地点の給水所は、壱岐島が誇る絶景・錦浜の隣にあった。以前3月に来た時、その美しさに言葉を失ったほどの砂浜が、この日は俺の墓場となった。
ただただ無念。しばらく座り込み、なかなか言い出せず、ひょっとしてまたイケるか?と思って立ち上がってみても、もちろん、もうダメだった。全てが終わった。
泣く泣く、給水所の係のおじさんにリタイアする旨を伝え、迎えに来てくれた救護班の車に乗せられ、全身ガチガチの痛みに耐えながら、ゴール地点へと連れて行かれた。
あぁ、あそこであんなに休まなきゃよかった。後悔してもし切れない。
こうして、自身初のマラソン挑戦は美しすぎる砂浜の地で、幕を閉じた。
その夜は痛みで動けず。階段とかマジ地獄 of 地獄。シャトルバスで降ろされてもタクシー乗り場までは遠い。そこを100m30分くらいの亀のようなペースで歩く男の姿はかなり惨めなものがあったのだろう、全く見ず知らずの、通りがかった車の人が「マラソン出はったん?乗っけて行こうか」と、心配して停まってくれるほど。
この方だけでなく、寄ったスーパーでも、食事に入った居酒屋でも、店員さんがみんな心配してくれて、優しく声をかけてくれて、接してくれた。
自由に動けなくなり、痛みを知って、人の温かさを思い知る。これはこれで、幸せな体験だった。
壱岐島、なんて優しい場所なんだ!皆さんありがとうございました。
ちなみに翌日、フェリーで博多に戻った途端に階段では舌打ちされ、後ろから荷物で押されたりもした。あいつら一生呪い殺す。
大会翌朝。LAMPそばの漁港にて。
朝のLAMP。
皆さんも、壱岐島に行かれた際にはぜひLAMPへ。干物を自分で焼くスタイルの朝食も、本当に美味しいです。
辰の島へ
大会翌日のこの日は「玄界灘の宝石箱」と言われる、無人島・辰の島へ。
ここ、LAMPのすぐそばにある港から船で行ける。3月に来た時は島の周りを遊覧するだけだったけど、この日は遊覧ではなく、実際に上陸。
ここで3時間ほど、本当にゆっくり。誰もいない海に入って足を冷やして天然アイシング。こんなおじさんが、一人で綺麗な貝を拾うのに夢中になってしまうほどに、ここでは心が洗われた。元気もだいぶ回復した。足はまだまだ激痛だったけどね。
エメラルドの奇跡・辰の島は本当にお勧め。壱岐に行かれた際はぜひ。
奇跡の夕焼けと、人のチカラ
この日の夕方、壱岐を離れる。
壱岐から博多へ帰るフェリーの中で遭遇した夕焼けは、これまでの人生でも体験したことのないくらいに美しく、幻想的なものだった。
僕はこの夕焼けを、一生忘れることはないだろう。それほどの美しさ。いろんな思いが相まって涙も出てきて。
結局この壱岐ウルトラマラソンで僕が学んだのは、人の温かさが人の力となり、人を動かす最大の源なのだということだった。
うわべの綺麗ごとはいくらでも言えるけれど、実際に自分が地獄のような痛みや疲れを味わってみたから尚更その有り難みを実感できたわけで、本当に本当に、心の底からそう言える。
人のチカラってすごい。もう少し言い換えれば、、人の優しさやあったかさを実感できた時にもらえる力や勇気って、本当にすごいし本物だ、ということだろうか。
それを自ら知れただけでも、壱岐島に来た価値は充分すぎるほどにあったんだ。
だから来年は支える側のボランティアとしてまた参加したいな、って終わった当初は思ってたんだけど、日が経つごとに
「いや、これ来年行ったら確実に完走できるっしょ」ってチャラく本気で思えてきたので、やっぱりもう一度50㎞の部に挑戦することにした。
そんなこと言ってまたグータラと練習せずに行きそうだけど、実はもう走り始めてたりする。で、走るのが楽しくなってる!走っても走っても、なかなか疲れないし。35.7㎞まで行った自信と体感の貯金が、やっぱり効いてるのかなぁ。
来年、誰か一緒に行かない?