40歳からの勇気〜なりたい自分になるためのアドラー心理学〜 【第13章:なりたい自分になるための訓練④ 「共同体感覚の解放」と「ギブ&テイクの法則】
共同体感覚は解放するもの
サラリーマンだったら、毎朝の通勤電車が苦痛以外のなにものでもないという人は少なくないだろう。私も東海道線を使って川崎から東京まで通勤しているが、あの異常ともいえる密閉空間と人どうしの距離の近さには(毎日のルーチンとはいえ)大きなストレスを感じる。
そんな朝の通勤時において、電車に乗る際には首都圏では整列乗車のルールが守られている。
しかし、時に通行人の影響などでその列が崩れることがある。その拍子に後から来た人がいわゆる「どさくさに紛れて」横入りをするケースを私は幾度となく見てきた。
一人が横入りをするとそれに続いて何人もの人がここぞとばかりに横入りをするので、結果自分が押し出されてしまい、待っていた電車に乗れなかったというケースが私には何度もあるが、あなたにはそんな経験はないだろうか?(現在は新型コロナ対応のため、このあたりはかなり改善されてきているように思うが、緊急事態宣言解除により、今後また通勤ラッシュが戻ってくる可能性も十分に考えられる)
誰もが自分に関心があるものだ。つまり、会社に遅刻したいと思っている人はいないわけで、そういう意味では横入りをしてでも早く電車に乗りたいという気持ちは分からなくもない。
しかし、自分たちの横入りによって「他者に迷惑をかけている」という事実に彼らは関心を向けていないのだ。
このような場面で考えさせられるのが、「共同体感覚」の問題である。
これは何度も言ってきたことだが、あなたは「なりたい自分になる」ために、自らの活動性を高めながら、そのエネルギーを自身の「共同体感覚」を引き出す方向にもっていかなければならない。
「引き出す」という言葉を使ったのは、共同体感覚はすでにあなたが持っているものだからだ。
『The Science of Living』(個人心理学講義の原著)の序文の中で、フィリップ・マリエは次のように言っている。
【私たちは、共同体感覚を何か創り出すのが難しいものとみなすべきではない。それはエゴイズムそのものと同様に自然生得的なものであり、まさに生の本源として優先度が高いのだ。私たちは〔共同体感覚〕を創り出す必要はなく、それが抑圧されている場所において、それを解放する必要があるだけだ*1】と。
そう、「共同体感覚」は抑圧されているだけなのだ。
通勤電車で横入りをする人たちも、「通勤時というその場所において、共同体感覚が抑圧されているだけだ」と考えたほうが、より正しい理解であると私は考えている。
なぜなら、整列乗車に協力しない彼らが、会社でも同じようことをしているとは限らないからだ。
例えば社員食堂が混んでいるからといって、果たして彼らが他の職員を押しのけてまで、自分が先に会計を済ませてしまうような行動を取るだろうか?
あるいは、通勤中では平気で横入りができてしまう彼らでも、仕事中は上司への気遣いを忘れず、お得意先には深々と頭を下げることを忘れないかもしれないし、また家では、いつも仕事で遅い相方のために食事を作り、相方が帰ってくるまで食事を待っているかもしれないのである。
つまり何が言いたいのかというと、人はその時に置かれた状況と対人関係によって、その対応を変えながら生きているということだ。
それは平野啓一郎氏の言葉を借りるならば「対人関係によって、その時々で見せる異なる顔=分人」ということになるかもしれないし、
アドラー心理学では「人は社会に埋め込まれた存在である(社会統合論)」と定義し、「その人のライフスタイルが、ある特定のライフタスク(関係性)に直面した時に見せる行動」であると考えられる。
「共同体感覚」も同じなのだ。
その時々の状況や対人関係によって、つまりライフスタイルが直面する課題によって、それは解放されたり、抑圧されたりしているのである。
それではなぜ、「共同体感覚」は常に解放しておく必要があるのだろうか?
共同体感覚と幸福との関係
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