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正解らしきものに馴染む方法

また、分厚い本を借りてきた。

けれども、読めそうな気がしている。というのも、読書計画を立てて、細かく読んでいくことにしたからだ。

「計画を立てて読む」というのは、それほど珍しいことでもなく、ありきたりなテクニックの1つだと思っている。けれども、自己啓発書で読んで「そうか!こうすれば良かったんだ!」と朝令暮改するのとでは、自分への納得度が違う。

同じことをしていてたとしても、そこへ辿り着くための道のりで感じ方が異なる。

自己啓発書に書いてあることはある程度どれも正解で、真面目に受けとればそこそこの人が救われると思っている。けれども、私も含めて中々それを実践しない。ここの境目に何があるのか。何かあるからこそ、似たような自己啓発書が毎年発行されて売れ続けるのだろう。

「私、それ分かっちゃいました」とか言うつもりはないが、考えはある。それは、書かれている方法と普段の生活で行っている行動との結び付き・関連を見いだせないからではないだろうか。

今までやってきたことをブツっと止めて、「はい、今日からこれね」と言われても体は受けつけない。いくら焚きつけられても結局は三日坊主に終わる。

ではどうすればいいのか?と言われれば難しいが、書かれている方法を部分的に取り入れるか、ゴールとして書かれている方法に辿り着けばいいのではないだろうか。

部分的に取り入れる方が簡単に思う。というのも、ちょっと変わったことしてみるか(気分転換)くらいの気持ちでやるのが早いからだ。

ゴールとして辿り着くのは自ら二の足を踏むことを知りながらやることなので、どうも気乗りがしない。さらには、その方法をあるいみ神聖視する必要がありとてもハードルが高い。

私は常に頭の片隅で「何かいい方法はないだろうか?」と考え続けながらそれを逐一試しているので、今やっていることが自分の中では常に最善だと思っている。もちろん、周りから見たら退化しているかもしれないが、私は進化していると思いこんでいるので満足している。

しかし、常に方法を探るというのは、それなりにコストのかかる行為で私の周りではやっている人は見ない(見えていないだけかもしれないが)。なので、万人向けではないと思っているが、振り返りも含めて書いた。

今の読書計画を立てて読むはアップデートではなく、昔、別のことに使っていたやり方を流用しているだけで何ら新しい方法ではないが、私の読書にとっては新しい。

あー、こんな考え方もありかもしれない。今書いたように、別のことに使っている方法を流用する。自己啓発本に書いている方法を本に書いてある用途とは別に使っていないか?を考えてみる。方法だけに注目して、料理には使っているとか、掃除には使っているとか。それを流用することで上手くいくかもしれない。

そもそも論として、自分が別のことに使っている方法を使うという考えに至るのが難しいように思う。これは一種の抽象化能力だと思っている。私自身も見えていないことはたくさんある。私が嫌だと思っていることをすんなり解決できる私なりのやり方(既にやったことのある方法)は転がっている。しかし、気づけていない。

「自己啓発本を読んで成功しました!」という人は、おそらくその本が無くてもいずれ自分で気づけていた可能性が高いように思う。そういう人は「ここで書いてあるこれって、私でいうところのあれだな!」って抽象化して考えられるからだ。

しかし、私を含め、これに気づけないから自己啓発本がたくさん売れるんだよなと思う。


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