何かが終わると、やりたいこととは関係ないことをやりたくなる
ここ最近感じることです。ここ最近でなくても、何かを終わらせて、「さあ、○○をやるぞ!」とはならなく、やりたいと思っていることとは別に「あれをしたい」となる。
私の話で言うと、図書館の読み物の積ん読が終わったので、プログラミングやお絵描きをしようと思ったものの、昔やっていたゲームのイベントをふと進めたくなるなどである。
この手の問題でよく聞く話が2つある。
・やっていないだけでやればできる
・壺に何から入れるか?
重要度で言うと「壺>やっていないだけ」だと思っている。
やっていないだけでやればできる
これは示した2つのうち小さい問題。
自分は実力があるけれども、それをやっていないだけでやれば必ずできるという例でよく使われる。これはできない理由の言い訳としても有効的である。どこか自分を正当化できるので、言い訳としては自分も納得感があり多用されるのだろう。
過去の成功体験に囚われて、「○○と似たようなことだから、やればすぐできるはず」という思い込みもある。この過去の成功体験に囚われることを忘れろというのが、世間でちょっと前から話題になっているアンラーニングの一種だと思う。
アンラーニングとは、英語のunlearning。つまり、学ぶという英語learningの否定形、学んだことを一度忘れるということだ。そこから、アンラーニングとは学んだことを一度忘れて、新しいことを学び直すこととして定義されている(あくまで私の認識)。
このアンラーニングの例として、1~2年前に新聞を読んで私も同感した内容として、高校までの勉強と大学での勉強は違うということです。
高校まではどこか単語や用語を覚える詰め込みの要素が強い。けれども、大学は覚えることではなく、発見することを学ぶ機関。ある程度の知識は考える上で基礎基本になるが、その基礎基本を疑わなければいけない所でもある。そうなれば、何を信じて何を疑うのか?絶対的な問題は何なのかと疑心暗鬼になる。この体験は高校まででは感じられないと思う。教科書にあるものが絶対的な正解で、答えを疑うなんてことをしたことがある人は少ないのではないかと思う。
それが大学では問われると思っている。実際に、大きく分けて理系というくくりでは大学4年生には研究室に配属される。そこでは色々な論文を読み、世界中で発見されている新たな事実を知る。けれども、本当にその現象は起こるのか自分で再現してみる必要もある(その実験に再現性があるかはよく問題にあがる)。報告があるから、必ず起こるわけではなく、論文に載っていないノウハウ的な部分が現象を引き起こしている場合もある。そういう場合も含めて検討が必要だ。
話を戻すと、自分の過去の成功体験だったり、過去の研究の報告も本当にやればできるものなのかはわからない。「やればできるだろう」「きっとそうなるはずだ」を当てにしてはいけないだろう。日頃からやっていることをちょっと後回しにするなら問題はないが、昔の成功体験を引きずるのは本当にそうなのかは分からない。ここで言う昔もいつからが昔からなのかは人によって線引きも違うし、正解もない。自分もこんな文章を書いていながらこの問題にはまっているいち人間である。
壺に何から入れるか?
次にこの話。リソースはどこか分からないが、こんな対話である。
内容はこういうもので、要するに優先順位を決めろということだ。そうしなければ、重要なことがぽっかり空いた人生になるという結論で終わる。
やりたいことを人生で重要なものと考えるならば、先に取り組まなければ後からは出来ないと考えることができる。
壺の話は先に書いた、やっていないだけでやればできる問題を先送りにし続けた先にある未来と言ってもいい。ここで振り返るなら、やりたいことはやればできるという前提があり、いざやってみた時には出来ないということになる。
私もいざやりたいことと思っていることをそっちのけで、別のことに手を出すのだからこの現象に陥っているのだろう。
P.S.
別のことをやりたいということは、そのことが本当にやりたいことなのかもしれない。でも、本当にやりたいことはあるのか?そして重要なのか?という問題もある。けれども、どうするかは自分次第である。
また、自己啓発的なことを書いてしまった。