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ゴールドマン・サックスで18年働いた私が、なぜ潰れそうな会社の社長を選んだのか?

キャリアのスタートは不良債権ビジネス

2001年に私は慶応大学を卒業してゴールドマン・サックスに入った。

当時は不良債権ビジネスが興隆しており、私のキャリアのスタートも不良債権の買い取りであった。

「不良債権の買い取り」と聞くと、株や債券の営業、もしくはM&Aに比べて本流な仕事とは思えないかもしれない。それでも私がゴールドマン・サックスに入ることを決めたのは、ハーバード大学院を卒業してウォール街で活躍されていた椿紅子さんからのアドバイスがきっかけだった。

「経済状態が悪いときに生じるビジネスを覚えておくのは、すごく合理的な選択だよ」

「どういうことでしょうか?」とわたしが返すとこう言われた。

「景気がいいときは何かしらの仕事はあるから食べていくのには困らないでしょ? でも、景気が悪くなったときに生まれる"不良債権の買い取り"とか"再生ビジネス"といった分野で手に職をつけておくのは、キャリアのスタートとしていいんじゃないの?」

当時の私は慶応大学の学生でふわっとしていた。

電通や三菱商事などからも内定をいただいており、順風満帆ないわゆる「慶応の人間っぽいキャリア」をスタートすることもできた。しかし彼女の言葉が妙に腹落ちして、結局ゴールドマン・サックスを選ぶことにしたのだ。

私は麻布十番に家賃5万円のアパートを借り、当時ゴールドマン・サックスの入っていた赤坂アークヒルズまで原付バイクで通うことになった。

ここから怒涛のような18年が始まるのだった。

戦略投資部(ASSG)への配属

私の所属した戦略投資部は、業界内ではAsian Special Situations Groupの略称”ASSG”で知られていた。ゴールドマン・サックス自らの資金を不良債権などの「ハイリスク・ハイリターン」な資産に投資することを生業にしていた。

2001年に入社してからも不良債権ビジネスは膨張していき、2008年のリーマンショックのころにはバランスシートに膨大なリスクを抱える存在になってしまっていた。

2008年に戦略投資部の東京オフィス単体で300億円ほどの損失を出し、翌年にもさらに約500億円の損失を出し、2年で800億円ほどの損失となった。しかもたかだか30人ほどしかいないチームでこれだけの規模の損失を出してしまった。会社としても、とてつもなく大きなダメージである。

ご多分に漏れず、毎週誰かがクビになり段ボールを抱えて出ていく……。

まさに映画のワンシーンのような光景を見ることになる。ただ不思議なもので、私と言えばもうそうした環境には慣れてしまい麻痺していたため、恐怖を感じるようなことはなくなっていた。

キャリアにおいても、リターンとリスクが「コインの表裏」であることを気が付かないうちに身につけていたのかもしれない。

不良債権の回収とは?

不良債権ビジネスと言ってもイメージが沸かない人も多いだろう。

簡単に言えば「回収が難しくなったローン債権を額面以下で銀行から買い取り、それ以上の価格で借り手から債権を回収して、利益を出す」というものだ。

私が印象に残ったディールでは、消費者金融のアイフルがある。

当時問題になっていたのがいわゆる「過払い金」だ。過去に消費者に請求してきた金利が適法でなかったため「返しなさい」ということになった。

その返済に耐えられず倒産したのが武富士だ。アイフルも同じような状況になっていたが、金融機関と一定の和解をし、和解条件の中で会社を少しずつ小さくしていき、消費者にもお金を返し、金融機関にもお金を返していた。

ゴールドマン・サックスはローン債権を何百億も買い集め、外資系の金融団の中で最も大きな債権者だった。私はゴールドマン・サックス以外の債権者も巻き込んで債権者団を組成し、アイフルとの交渉に当たった。

単純に「返してください」と言っても借り手が「万歳」して破綻してしまったら終わりだ。しかし「いつでもいいですよ」と言っていても返してくれない。ましてや相手はアイフル創業者の福田吉孝氏である。海千山千の老練なビジネスマンで一筋縄にいくわけがない。あらゆるシナリオを描く必要があった。

無担保債権回収は、「この権利を主張したら、これだけ返してくれるかもしれないが、こういうリスクを誘発する」と詰将棋のような合理性に加え、各ステークホルダーとの心理戦の要素も多分にある。

このあたりのバランスはすごく難しいのだが、私は面白いと感じた。

ゴールドマン・サックスで学んだ思考プロセス

私がゴールドマンで学んだのは"Buy cheap, Sell high"というビジネスの基本だった。しかし、これが奥深いのだ。

それこそ世の中の人がやらないこと、いわば「火中の栗」を拾うようなことができるか? センチメントが著しく下がっているときに、あえて注目して勝負できるか?

そんなことを入社して以来、ずっとやっていたわけだ。これが私のDNAに強く組み込まれた。

判断は「ベースケース」「アップサイドケース」「ダウンサイドケース」を必ず作ってから行なう。ベースケースは「基本こうなるだろう」というもの。アップサイドケースは「こうなったらいい」という希望的なシナリオ。ダウンサイドケースは「最悪の事態」だ。

特に最悪の事態を想定しておくのは重要だ。最悪まで行かなくても、不測の事態が起きたときにどうなるかを予測し、それを抑えるためにどうするかを考えておくのである。

資金の投下方法も、シンプルに「資産を買う」ということだけでなく、複雑なケースが多かった。「ストラクチャー」と呼ぶのだが、特約をつけたり、担保をとったり、会社を二つに分けたりとあらゆる方法があった。

勢いよく物事が下がっているときに、いかにナイフを掴むか? 当然何も考えずに掴むと怪我をする。そうではなくリスクを極力抑えながら、いかに掴むかが重要なのだ。

こういったノウハウを新卒のときからずっと叩き込まれていた。

「攻めに転じよう」

そうやって不良債権ビジネスにのめり込んでいた私だが、リーマンショックを機に「こんな安い価格で資産を売り続けるのは馬鹿馬鹿しい」と思うようになった。

それよりも、資産を買いたい。こういうときこそあえて攻めに転じたい。資産を買い、ビジネスを始めたい。

2009年の終わり頃だっただろうか。

今にして思えば落書きのようなものだったが、自分なりに事業計画書を作り、社内の偉い人にプレゼンをして回った。記憶は定かではないが、たしか「5億ドルの予算をつけてください」という提案だったと思う。当時は1ドルが100円ほどなので500億円くらいだ。

そのとき32歳。外資系といえども若い。さすがに「実現はちょっと厳しいかな」と思っていた。

しかし、ゴールドマン・サックスの偉いところは、そうした若くて実績がない30歳そこそこのやつが何か言い出しても聞いてくれるカルチャーがあるところだ。「こいつ、誰だ?」という感じだったと思うが、それでも「まあ、やってみろ」ということになったのだ。

香港でのビジネス

そのときの私は戦略投資部から他のチームに移っていた。

戦略投資部は大損害を出したためクローズダウンしてしまい、他のチームで居候のようになっていたのだ。「とりあえずこのチームにいて残務整理をしてくれ。今後の沙汰は追って知らせるから」と。

そんななか私は「こういう投資ビジネスを再開したい」と言いだしたわけだ。平時であれば先述したように「じゃあ、やってみろ」となるのだが、金融危機直後のゴールドマンはリスク許容度がかなり減退していた。

「東京オフィスには投資判断をする機能を持たせてはいけない」ということになり、投資判断が許されたのは世界中でニューヨークとロンドン、アジアでは香港だけになっていた。

「もし投資をやりたいなら、香港からやってみろ」ということになり、私は香港に異動することになった。2010年暮れのことだった。

当時、私のいたチームは関連部署まで入れると300〜400人いたのだが、日本からは1人しか連れていくことができなかった。私は仁木準(にき・じゅん)という人間に声をかけることにした。

「俺、こういうわけで香港に行くんだけど一緒にどうか?」と誘うと、仁木も賭ける価値があると思ったのか、単に面白そうと感じたのかはわからないが了承してくれた。

彼は頭が良い。灘から東大工学部に進み大学院での専攻はたしか航空工学だった。ゴールドマン・サックスで出会った人間で最も頭脳明晰だと思った。そんな仁木をパートナーとして香港に移ることができたことは何より心強かった。(ちなみに今、彼は「D Capital」というPEファンドを創業して活躍している。)

知的体力が極端に強い人間の集まり

ゴールドマン・サックスは本当によく考え抜く人間たちの集まりだ。最後の最後まで手を抜かない。

普通、仕事というのは80点行けば合格にしてしまいがちだ。夜中の0時に80点に達したら「もういいだろう」と考え、家に帰ると思う。しかし、ゴールドマン・サックスの人間は帰らない。最後の20を突き詰めることで、よりリスクを減らしたり、より儲かる方法を探そうとするのだ。

結局、夜中の2時くらいまでやるわけだが、それでも100にすることは難しい。88くらいにしかならない。そこでゴールドマン・サックスの人間は朝までやってしまう。今はどうか不明だが、私のいた当時はそんな感じだった。

別に強制ではない。誰もそこまでしろとは言わない。ただただ議論が好きで、知的体力が極端に強い人が多いのだ。そんな彼らに比べれば私は体力はがないほうだ。さすがに午前2時にもなるとパフォーマンスは落ちてくる。しかしそこから加速していくやつもいる。仁木はそんな人間の一人だった。

年収3億5000万の衝撃

リーマンショック後の混乱の中、私は新しいビジネスを立ち上げたわけだが、それはひとことで言えばものすごくうまくいった。

時代的にも順風が吹いていた。日経平均も上がり、あらゆるものの値段が上がっていった。さらにアベノミクスなどでそれが加速し、我々のビジネスはものすごく大きなビジネスに成長した。その成果は数字となって現れた。

私の年収は当時で1億円ほどだった。これでも十分すぎるほどの報酬だと思っていたのだが、その年の終わりの年俸査定で提示された金額に驚いた。3億5000万円だったのだ。

「ヴァイスプレジデントでこんなにもらっていいのか」という驚きと恐縮の念が交錯したのだが、その感謝の気持ちをグローバルヘッドのJason Brownにメールすると、一文だけの返信があった。

"No more than you deserve."

つまり「君の価値に見合った額に過ぎない」という意味だ。英国人のJasonらしい知的かつ端的な言い回しだな、と思うと同時に「これがウォールストリートのエンジンなのだ」と強く感じた。

"Equal opportunity"と"Wealth Creation"

持田昌典社長は、2023年まで四半世紀にわたりゴールドマン・サックス東京の社長に君臨した「主」である。持田さんのお部屋に入るときには、畏敬の念から誰もが強烈な緊張感を覚えた。ただ、発せられる言葉の深さに学びが多く、私はそれがいつも楽しみだった。

ある日、彼はゴールドマン・サックスの強さの根源は"Equal opportunity(機会の平等)"と"Wealth creation(富の創出)"の2つにあると言った。

Equal opportunity=機会の平等は、一見すると他の会社でもあるように思えるかもしれない。社員みんなに平等にチャンスが与えられるという考え方自体は珍しくない。ただ、ゴールドマンの特異性はその先にある。

チャンスを生かして成果を出したときの「評価と報酬」が他の企業とはまるで次元が違うのだ。その真髄を香港で知ることになった。

単に公平にチャンスを提供するだけではない。そのチャンスを最大限に活かし、大きな成果を上げたときには、それに見合った報酬が支払われる。しかもその評価は具体的で迅速。結果として、成功がもたらすインセンティブが社員一人ひとりを突き動かすようになる。

もうひとつの"Wealth creation(富の創出)"も、ゴールドマンの文化を体現している。普通の企業では、従業員は給料がまるで「天から降ってくる」ように考えていたりする。企業側も「従業員に給与を支給する」といった感覚だろう。

しかしゴールドマンは違う。

従業員が豊かになることを会社全体で真剣に考え、それを実現するための仕組みを整えているのだ。「従業員が収入と資産をどう増やせるか」という議論が日常的に行われている。そうした環境で働くことで、キャリアだけでなく人生そのものの見方が変わっていく。

単に、仕事ができる、頭がいい、反応が早いといったスキルだけではなく「まずは、一兵卒として懸命に働き、成功するなかで富を与えられ、やがて従業員から資本家に成長していく」という意識が根付いていくのだ。

ソフトバンクグループへの転身

そんな中、2018年にソフトバンクグループ(以下「SBG」)が「ビジョン・ファンド(10兆円ファンド)」構想を立ち上げた。

ゴールドマン・サックスでは日本支社の副社長、その後ゆうちょ銀行の副社長を務めた佐護勝紀(さご・かつのり)さんがSBGの副社長に登用された。

当時の私は、さまざまな選択肢がある中で「SBGに行くのは面白いかもしれない」と思った。

佐護さんが正式就任した2018年6月の株主総会後の翌月7月に汐留にあるSBG本社の副社長室を訪れた。人材を集めることは想像がついていたが、最初に駆け付けることに意味があると思ったからだ。

それを粋に感じてくれたのか、果たして佐護さんは雇ってくれた。ソフトバンクでの雇用に際して私から条件提示などは一切しなかった。

その頃の私はゴールドマン・サックスの中でも最も高い給料をもらっていた人間の一人だったと思う。本当かどうかはわからないが、ある年は「君はアジア圏で5番以内に稼ぐマネージング・ディレクターだよ」などとチヤホヤされていた。(おそらく20〜30人くらいのスター社員に「お前は五指に入る」と煽てていたのだろう。)

私はそうした高給を捨ててでもSBGに行ったほうが面白いだろうと思った。結果的には、佐護さんが孫社長にもかけあってくれ、身に余る厚遇でソフトバンクに移ることになる。(深く感謝しており、それが今の会社の経営権取得につながったことまで含めて佐護さんには一生頭が上がらない。)

当時のソフトバンクは言葉を選ばず言えば「むちゃくちゃな勢い」があった。ひとつの投資案件が100億円を下回ることはほぼなく、1000億円規模で「まあまあ」みたいな世界だった。そのダイナミックさにも魅力を感じた。

自らの価値が最大化する転換点はどこか

少しだけキャリアの話をしよう。

ゴールドマン・サックスにおいては「いつ辞めるか」もすごく大切だと私は思っている。他社からのオファー自体は正直いつでもある。「倍の給料を払います」とか、倍まで行かずとも1.5倍くらいのオファーは多い。

そんな中、どこで転職の判断をするか? いつ転職というカードを切るかがすごく大切だ。

単に給料が増えればいいというわけではない。その瞬間だけを見れば「いまは年収が5000万だから、8000万になったら3000万増えるな」と思うかもしれない。でも、そういうことではない。

人生全体を俯瞰して、自分の価値が最大化するための転換点となる転身なのか? そこを見極めることだ。

これは企業も同じだが「ある年に100億儲かっても、翌年も同じ100億しか儲からない」のと「ある年は30億しか儲からないが、将来的に200億儲かるポテンシャルがある」ならば、後者を選ぶべきだろう。個人も同じだ。

別に金銭的な価値がその人のキャリアの全てではないと思う。しかし、やはり「どこで何を学び、どこに自分の人生の時間を投資し、最終的に自分自身が納得できる人生とはなにか」を考えておくことは大切だと思う。

潰れそうな会社を引き取る

ソフトバンクでは孫社長の御前に世界中から起業家や経営者が飛んできて、投資を募ったりビジネスモデルそのものを議論する。そんな日常だった。

それを見ていて「お金を出すだけの投資家より、自らが企業を経営したほうがずっと面白そうだな」という思いが芽生えた。いつしか「ソフトバンク経済圏の中で、経営を引き受けるチャンスがあったらやってみたい」と考えるようになっていた。

そんな中で出会ったのが今の会社、アーキテクト・ディベロッパー(以下「ADI」)だ。

当時はMDIという社名だったが、2008年に「レオパレス21」の創業者・深山祐助氏が創業した不動産会社である。

いっときは売上高も1000億円を超え、社員数も約1700人いたが、レオパレス21の施工不備問題が、創業者が同一ということでADIにも飛び火し、深山祐助氏は引責辞任するとともに、保有株式をSBGが中心とするグループに譲り渡した。

2019年の頭に私はADIの社外取締役となっていたのだが、それから1年経って襲ってきたのが、あのコロナ禍だった。いきなり大嵐の状態になった。SBG自体も赤字になり、孫社長も守りを固める経営に舵を大きく切っていった。

そういったとき「ADIに対する投資をどうしようか?」という話になった。平たく言うと、SBGはテック企業を中心とするコア事業にだけ集中して、ノンコアにはなるべくリソースをかけないという判断をした。

私は「これはチャンスかもしれない」と思った。つまり「引き取るなら今だ」と思ったのだ。

40代半ばはキャリアのプライム

コロナになってADIも営業ができなくなり、2期連続で数十億の赤字を出した。人員のリストラも進んでいた。他人の目から見ると瀕死状態。銀行の支援なども皆無で、本当に潰れてもおかしくない状態だった。

だからこそ逆に「この会社を引き取ります」と今言っても、誰も文句は言わないだろうと考えた。

想像通り、会社を引き取ることを提案すると「なんでそんなこと喜んでやるの?」と口々に言われた。私は「いやいや、これはもう乗り掛かった舟みたいなものなので」と濁していたが、まわりからの反応は「物好きだね」といったものだった。

2020年の末から会社を引き取るための具体的な話が始まった。

やる以上、実行力のある経営権と株主権は必須だと考えていた。ただ譲り渡す側からすると「本当に木本に一任して大丈夫なのか?」というのは当然の疑問である。会社の状態も悪い。「引き取って会社が良くならなかったらどうするのか?」と。

しかし、私はこう言った。

「考えてください」と。「私、今、40半ばで、キャリアのプライムですよ。気力、体力、時の運、全てピークの自分の時間を何年間も費やすのだから、もし仮に結果が出なかったら、私にとってこんな大きなマイナスはないですよ」

「よく言うよ」という感じもするが、こういうときは言い切ることが大切なのだ。すると相手も「そこまで言うなら」ということになった。転職したら何億もの給料がもらえるはずなのに、それすら捨てて瀕死の会社をやりたいと言っているわけだ。

最終的にソフトバンク最高財務責任者の後藤芳光さんから「じゃあ、よろしく頼む」と言っていただいた。これが3年前のことだ。

数十億の赤字が40億の黒字に

私が大切にしている言葉のひとつに"Agility(アジリティ)"がある。

意味としては「方向転換」とか「俊敏性」「敏捷性」だ。

何か予想外の事態が勃発した、とりわけネガティブなことが起きたときに、それをそのまま捉えず逆張りをしたり、自らのポジション・視点を置き換えることで「マイナスをプラスに」転じられることはたくさんある。

ビジネスをやっていると、どうしても自分側から見えているものだけを見てしまう。例えば金融危機でメルトダウンが起きたときに「今、投資銀行なんかにいたら終わりだ」と思うのもひとつの側面である。ただ一方で「たしかに手持ちのアセットは下がっていくが、それを売りながら別の財布で買い向かうことだってできる。むしろ安く買えるじゃないか」と考えることだってできる。

そういった発想ができるか。マイナス局面でもこうしたアジリティを発揮すれば、状況を180度変えることは可能なのだ。

果たして私が社長(正確には代表取締役CEO)になってからの3年で、二桁億円の赤字だったADIは40億円ほどの黒字を達成し、さらにいまも急速なスピードで成長している。

どのような改革を行なったかはまた別の機会にお伝えしたいが、ゴールドマン・サックスという文脈でいうなれば、元同僚の存在が大きい。

これは想定していなかったことだが、ゴールドマン・サックスのときの同僚が5人ほど順番にADIに転職してきてくれたのだ。これはすごくありがたいことだった。

住まいへの思い

私の父は新日鉄に勤めていた。幼少期は家族5人で狛江の社宅に住んでいた。団地暮らしの典型的なサラリーマン家庭だった。

私が小学校に入る前に父の転勤があり、イギリスで暮らすことになった。ロンドン郊外の一軒家に引っ越したのだが、子どもながらに私はすごく感動したのだ。

その家には広い庭があって、柔らかい芝生が一面に広がっていた。イギリスの芝生は日本のものと違い、柔らかく冬でも青々としている。日本芝は冬になると枯れて茶色くなるが、初めて洋芝を見たとき、その違いに驚いた。

また、庭だけでなくロンドンの街中も高木に溢れ、街路樹が街の風景に組み込まれているのを見て、感銘を受けた。

1987年頃、父はロンドン中心部にマンションを購入した。

築150年超のチューダー朝の建物で、いわゆる「フラット」と呼ばれるいかにもロンドンらしい白亜の集合住宅だ。日本の住宅文化とは大きく違い、リノベーションを重ねながら大切に使い続けるスタイルが当たり前で、新築に対する信仰が強い日本とは対照的だった。

当時、築150年で買った我が家のフラットも、もうしばらくすると築200年となる。来年からイギリスの全寮制の学校に留学する私の息子も、休暇の際には過ごすことになるのだろう。あらゆる家族にファミリーヒストリーがある。木本家にもささやかな歴史と物語があり、その中心にあるのが住まいなのだ、と私は思う。

美しい暮らし方を「住まい」からーー。

幼少期のイギリスでの暮らしを通じて、私は住まいや住宅に対する関心を強めることになる。数十年を経て、住宅の会社を引き取ることにしたのも、こうした思いがあったからだ。

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