障害を隠して働くということ #未来のためにできること
文藝春秋とnoteで「#未来のためにできること」をテーマに「文藝春秋SDGsエッセイ大賞2024」とした投稿コンテストです。以下本文になります。(本文1,000字以内)
フツウの人は働く時に、何かを隠して入社しているだろうか。人には絶対に言えない秘密を抱えているのだろうか。そういう人は居るだろうけど、圧倒的に少ないと私は思う。
私はフツウの人では無いけど、フツウの人として潜り込むために『障害』という大きな塊を服の下に隠して入社した。なんで障害を隠さないといけないかって、それは差別があるからだ。『障害』があると賃金は低いし、「ソウイウ目」で見られるし、障害者自体に抵抗感を示す人も居る。
社会もそれを認めている。何故なら障害者雇用では概ねキャリアアップは臨めないし、いつも同じような仕事を押し付けられるだけだ。「会社として雇わなければいけない人」だから周りの人は認めざるを得ないけど、別に近寄っても来ない。雇う割には将来性がまるでないのだ。入ったらポイと障害者雇用枠という吐き溜めに入れられて、適当に仕事させて終わり。私が見てきた現状はこれだったから、もう二度と『障害』を明らかにして入社するなんて止めよう、そう考えていたし、それが一番正しい方法だと決めつけていた。
するりと入社関門を通過すると、待っていたのはフツウになりすますエネルギー不足が課題であった。始業から終業まで気を張ってないといけないし、そもそも脳内が多動でうるさいので午前中には帰りたいし、相手の顔色を見ながら話を聞くというマルチタスクを一日に何遍もやらなきゃいけなかった。仕事だってある一定の段階に達したら、どう進めていくか自分で決めていかなきゃいけないプレッシャーに押し潰された。というか、それ自体私からすると無理難題であったのだ。「人にはできることとできないことがある」と健常者は言うけれど、努力すれば何でも出来るように見える。でも障害だけは努力したってもがいたって変えられないから、それだけが辛かった。
話しかけてはいけない時に話しかけたり、場を凍らせる言葉を平気で言ったり、締切の進捗管理だってろくにできやしない。これをちょっとポンコツな人間で括れるほど社会は甘くない。
だけど聞いて欲しい。私たちは真剣なのだと。
だけど聞いて欲しい。私たちは望んでいないのだと。
だけど聞いて欲しい。私たちは認めてもらいたいと。
私たちの殻の中で、閉じこもり続けたくないから。