躁転前あるある「うつ病診断」
双極性障害の当事者は、病識がない場合、躁状態を「調子が良い」と判断してしまいがちです。そのため、鬱状態になって初めて「しんどい」と感じ、病院を訪れることが多いといわれています。この結果、医師からは最初に「鬱病」と診断されるケースが一般的です。しかし、その後も治らない鬱や突然元気になるといった気分の波を繰り返す中で、ようやく「双極性障害」という診断が下されることになります。
双極性障害では、「うつ病」から「双極性障害」への診断変更がよく見られますが、一般的にはこの診断が確定するまでに4年から10年もの時間がかかるとされています。その中で、約3年という比較的短期間で適切な診断がついたのは、不幸中の幸いでした。
しかしながら、双極性障害1型の可能性が考慮されず、2型と診断されたことが、後に大きな躁転を引き起こす原因となってしまいました。というのも、2型の治療に使用される抗うつ剤を1型の患者に処方すると、躁転を誘発するリスクがあるためです。
モトットの双極性障害の症状は、結婚や出産、そしてコロナ禍というさまざまな環境の変化の中で徐々に顕在化していきました。
結婚から変化の激しい生活へ
私の年齢的にリミットが近づいていたので、入籍前から急いで妊活をスタートしました。そのとき、モトットはとても協力的で、自分の検査や私の通院にも積極的に付き添ってくれました。そしてタイミング法を試して4か月後、無事に妊娠!
妊娠中も彼はとても優しく、私の食事に気を遣って「貧血に良いものを」と血に良いメニューを作ってくれたり、一緒に水泳に通ってくれたりと熱心にサポートしてくれました。ただ、この頃からモトットの働き方に少し不安を感じるようになります。
モトットは少人数のNPOに勤めていましたが、もっと自分で会社を動かしたいと理事に就任。ただ、口は動くけど仕事の効率が低く、NPO内では「権利は主張するけど、義務を果たさない」といった批判が出始めていました。また、いろいろな活動に手を出す性格がたたり、日常生活にもその影響が出るようになってきました。
育児ノイローゼとタスクを増やし続けるモトット
出産は超安産で、私も元気だったので、産後3日目から病院のベッドで仕事を再開。妊娠中にモトットがしっかり協力してくれたおかげか、息子は心身ともに健康で、子育ては「超イージーモード」でした。夜泣きはほとんどなく、コミュニケーションもしやすい子どもだったと思います。
ちょうど出産と同時期にモトットが大学院の入試を受けており、彼も楽しそうに勉強に励んでいました。また、出産後は6か月間の育休を取ってくれて、ここまでは順調そうに見えたんです。
でも、この頃からモトットの様子に少し違和感を覚える出来事が増え始めました。
産後2週間目、基本的には夜は私がずっと息子の対応をしていましたが、ある日私が風邪をひいてしまい、一晩だけ息子のお世話をお願いしました。(この頃は3時間おきにミルクをあげる時期)すると、夜泣きする息子を抱っこしたまま、モトットが呆然と立ち尽くしていたんです。そのときは「慣れてないのかな」と思ったのですが、それ以降、彼に育児ノイローゼのような兆候が出始めました。
育休中もモトットは子育てだけではなく、自分の個人事業やNPOの引き継ぎ業務に時間を使っていました。さらに批評の執筆も並行して行い、夜になるとファミレスに通って作業をしていましたが、この業務に費やすのは2週間分の夜間。それで得た収入はわずか7000円。それが名誉につながる仕事だからと割り切ってはいるものの、彼は次々と割に合わない仕事を抱え込みました。
一方で、私は子育てと仕事を両立しながら収入を得ようと必死だったため、モトットの「自分のことしか考えていない」姿勢にイライラすることが増え、時間の取り合いになり、喧嘩も頻発するようになっていきました。(ただ、基本的に私たちの生活の費用は折半です。)
増え過ぎた草鞋
モトットはやりたいことが次々と増えていき、NPOの勤務日数を減らして大学の支援職員としての仕事を始めました。この「支援職員」という仕事は、彼にとって好きな研究をお金をもらいながらできるというもので、選ばれたこと自体が彼の優秀さを示しているようなポジションでした。
その時点で彼は社会人大学院生、NPO職員、個人事業主、そして新たに大学の支援職員という4つの肩書きを抱えることになりましたが、まさにそのタイミングでコロナ禍が始まります。
支援職員としての仕事と大学院での研究、どちらも「研究」がメインの業務だったので、同時進行は難しいだろうと私は考えていました。研究というのは実績を出さなければならないため、追い詰められやすい状況になります。それは効率の悪いモトットにはむいていません。
だから、彼には「どれか整理しよう」とアドバイスしました。4つの肩書きの中で、安定して賃金がもらえるのはNPO法人の仕事です。一方、個人事業主としての収入は不安定で、少額なことが多いので効率が悪い。それに、支援職員の仕事も新しい挑戦だけど、同じ研究系のタスクを増やすのは現実的じゃない。なので、私が言った「整理する」というのは、実質的に「支援職員を諦める」という提案でした。
当時のモトットの経済状況は厳しく、私に大学院の学費を借りているだけでなく、息子の教育費の積立も止まっているような状態だったのです。
ただ、私の要望は受け入れられませんでした。それまでも何度かモトットに「これ以上は無理」とブレーキをかける場面がありましたが、彼は強く反対するわけではないものの、最終的には自分のやりたいことを優先してきたように感じます。
コロナ禍でさらに不安定な生活へ
その上で始まったコロナ禍は、モトットの学業にとって大きな打撃でした。研究はほとんどオンラインになり、受けられるはずのサポートや指導が十分に得られず、学びの環境が大きく制限されてしまいました。さらに、生まれたばかりの子どもがいる状況もあり、私はモトットにリモートワークを徹底し、厳しい感染対策をするようお願いしました。息子は保育園に入園していたものの、感染リスクを考えて通園は見合わせることにし、私自身も在宅で仕事をしながら息子の世話をする毎日が続きました。車を所有していなかった東京での生活は、人との接触を避けるのが非常に難しく、家族全員がピリピリとした雰囲気になっていきました。
東京での自粛生活に限界を感じた私たちは、私の実家のセカンドハウスに移ることにしました。そこは新幹線で移動する距離にあり、畑や広い庭、大きな公園も近くにあって、子どもと過ごすには理想的な環境でした。数か月そこで過ごしては東京に戻る、という生活を繰り返していましたが、これがモトットをさらに追い詰める結果になってしまいます。
もともとモトットは環境の変化に弱いところがありました。コロナ禍で研究がうまく進まず、十分な支援も得られないストレス、子育てと経済的な不安、慣れないセカンドハウスでの生活が重なり、彼は夏になると鬱っぽくなり、布団にこもって寝込む日々が増えていきました。
双極性障害2型の診断へ
2020年、モトットは近所にある小さなメンタルクリニックに通い、その日のうちにADHDと診断され、コンサータと抗うつ剤の処方を受けるようになりました。(診断をしたのは、指定医資格を持つ加藤医師です。)そして2022年頃には、彼の鬱が「夏の終わりに悪化する周期がある」と理解するようになりました。その年の春は比較的元気で、多くの仕事を引き受けていましたが、夏が終わる頃には再び鬱がひどくなり、何も手につかなくなる状態に。その結果、メンタルクリニックで「双極性障害2型」の診断を受けることになりました。