ADHDとのライトな付き合い方
自分のためのADHDの発信はもう飽きた
ADHDに関する体系的な知識を出し切ったら、ADHDとして生きていくところからは卒業したいなと思っています。
ADHDとしての自分と向き合うこと、それ自体にはすごく意味があって、自分を愛してあげるために必要なプロセスだったと思うのです。
でもそれは長い人生のうちの通過点であって、このままずっと「ADHDなコッピー」で生きていこうとは思っていません。
それは「心理学者なコッピー」になるかもしれないし、「背伸びしないコッピー」「情報発信するコッピー」かもしれない(分野的には近いね)。
とにかく、自分のための生きずらさの発信はもう必要ないなと思っています。もちろんずっと自分には振り回され続けるけど、ほとんどが想定内になったので、なんだこれ…検索しなきゃ、相談しなきゃ、というような焦燥感は消えてしまった。
誰かの役に立つ形でならADHDについて語りたいけど、「ADHDとしての自分」は放出しきった感じ。そしてこれってたぶん健康的なことで、ADHDというアイデンティティにこだわることからの卒業なんだと思う。
他の誰かがADHDをアイデンティティにし続けること、それ自体は全く否定しないけれど、個人的には、当事者として語ることをライフワークにするには性に合わないな、と思う訳です。
障害受容は必須か
ADHDを活かして楽しく生きている人もいるし、運悪く色んなリスクが重なってしまって、もがき苦しんでいる人もいる。でもその生きづらさって、たぶんもう「ADHD」のみのラベルで理解するのには限界があって、別の視点でも分析していく必要もあると思う。
近い将来、ADHDという概念は解体されるかもしれない。かつて発達障害という概念も大きく変化してきたように。
もしそうなっても、自分自身のアイデンティティは無くならないように。
ADHDなコッピーを通じて出た結論は、社会から要求されるものと自分の能力の合わなさのちぐはぐさを抱えて生きていく、でもなるべくそのギャップに苦しまない環境を選択して生きていくということです。
もし会社に就職したら、あるいは特性を許し合えない人とぶつかってしまったら、とたんに障害としてのADHDに苦しむことになるだろう。
でも、歩み寄れる可能性が低い人にぶつかる必要がないことも分かってきたし、ADHDという言葉を使わずに特性を言えるようにもなってきたから。なんとかなるなという自信。
ADHDであるという負のレッテルや、受けるであろう差別や偏見に悩んでいるというひとがいれば、まず障害受容しようと伝えていた。そもそも障害というものは、マジョリティによって設計された社会のデザインとの不一致であって、健常者に比べて劣っているとかそんな意味合いはないんだよと。
でもADHDであることに悩むのであれば、「ADHD」というカテゴリを使って情報収集して、生きづらさを解消することに努めたら、もうADHDはこっそり卒業しちゃえばいいよって思うようになった。
障害者手帳を持っていても、薬を飲んでいても、そりゃあ社会的にカテゴライズされるのであれば、そういう名前が付くかもしれないね、でもわたしはわたしっていう軽い付き合い方でいいと思うの。
受容しようとしまいが、自分という本体と仲良く暮らしていけるようになればそれでいいよ。
おわりに
コッピーちゃんが飽き切る前に、今後ADHDにつまずいた人のために知識を体系的にまとめなきゃなというのは、ADHDに翻弄されてきた自分として使命感を持っているから。
そしてここまでやってきたから、最後までやり切って形にしたいという気持ちがある。
飽きっぽいのでアカデミアの世界合ってないかもな…なんて思い始めている反面、こうやってコラム的に文章を書くことは好きだし、学んだことをカジュアルに発信していくのも、人と話すことも好きだな。
ということで、誰かの生きずらさの解消のために情報を発信することと、自分がADHDに苦しんできたという事実は、分けて考えていきたいなぁと思っている、そんなお話でした。
みんなもADHD(あるいは発達障害)とのお付き合いの仕方を考えてみてね。
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