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性別なんてどうでもいい

映画『ある少年の告白』を観た。

物語の主人公ジャレッドは、あることがきっかけで自身が同性愛者であることに気が付いた。その事を知った親はジャレッドに矯正セラピーへの参加を勧めた。しかし、そこの矯正施設のプログラムの内容はとてもひどいもので、ある日ジャレッドはある行動に出る。

というのがこの映画のあらすじだ。

ジャレッドの父親は牧師で男女が結びつき、新たな生命を生み出すことこそが人間の使命であると考えている。それに父親の立場から、孫を抱きたいという願いが叶わないことをとても残念に思っている。息子がゲイであることを最後までなかなか受け入れられない様子であった。

最近LGBTQが話題となっている中で、私は自身の性を改めて考えてみた。私の性は生物学的に女で、性自認も女である。性的指向についても考えてみたところ、これまで付き合ってきたのは男性であり、私は異性愛者であると思っていたが、最近は私はどっちでもいけるんじゃないか、いや、もはや性別なんてどうでも良いと思うようになってきた。

愛というもの自体がよくわからないが、異性だけではなく、同性に惹かれることもあるし、肉体的な関係性も男性でなければならないとは思わない。

ただ、これまでは何となくそれを言えなかった。「おかしい」「気持ち悪い」と言われるのが怖かったのだと思う。

恋愛の対象が異性でなければならないという意識が私たちの中にあるから、異性とお付き合いをしているという人もいるのではないだろうか?

蓋を開けてみたら

正直性別なんてどうでも良い。

なんて人も多くいそうだ。

子どもを生むことが人間の使命だなんて、クソ喰らえ(笑)

前、子どもと街を歩いていた時に知らないおじいちゃんからもう2人くらい生まないとね、と言われた。

少子化だし、たくさん子供を産め

と思っている人は同性愛にも反対なんだろうな。

そもそも別に私たちは子どもを生むために生まれてきたわけではないし、子どもを生むか生まないかで人間の価値は決まらない。

私がこの映画で最もモヤモヤを感じたのは、子どもを生むことを前提として異性愛を推奨し、同性愛を非難していたことだ。

子どもを生まない女性に非難をするところがある。子どもを生めない女性は女性としての自信をなくすこともある。

どこかで子どもを生んでこそ1人前だ。家庭を持ってこそ1人前だ。と思っているからこ

みんなある程度の年齢になったら普通に異性と結婚して、子どもを生もうと考える。

異性愛と子どもを生むことはセットなのだ。

その考え方に縛られている限り、私たちは同性愛を認めることはできないだろうし、女性が子どもを生まない選択をすることも難しいだろう。

同性愛への理解は進んでいるが、私たちは相変わらず異性愛に縛られているように思う。

それが当たり前だと思っており、私たちは性別に縛られ、結婚や妊娠・出産に縛られているのだ。

変わっているようで、変わっていない。表面的には受け入れているようで受け入れていない。今の世の中は、私にはそんな風に見える。






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