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散文62

刺繍が施された本の装丁に指を触れて、蛍光色の文字を追ったときには、既に遅かった。
何が?
すべてが。

友達に教えてもらって買った、青い装丁のコミックのシュリンクを剥がすのが手間で、やっぱり捨てておいた。感想を言い合ったり、馴れ合いみたいな批評を繰り返している時間を想像して、読むのすら辞めた。そうして、駆け込むようにして入った、夜十時まで開いている大型書店にて、詩集を買った。

詩集は有益なことを書かなかったが、そのことが良いことは言うまでもない。日常という日常のなかで、その場その場を場当たり的に乗りこなしていくために読む、本、それはいわば取るに足らないビジネス書や、消費されていくべき雑文であり、人が生きていくための目的を持った読書というそれ。読書推進委員会なるものが、怖かった。だが、同じくらい街の書店が消えていくことも怖かった。そういうことをぼんやりと考えて、真夜中に月が出ている、と思った。月は、自分がいつも見ている空の方角とは全然異なる場所にいて、未視感が強く感じられて、新鮮だった。窓から入り込んで優しくカーテンを揺らした夜の風に、洗いざらしの洗濯物の安い石鹸の匂いがした。

浴室から伸びてくる、柔らかいオレンジ色の光を頼りに、その詩集のぼやけた文字の輪郭を追う。そうしている間に、詩集を開き続ける指と指の間が痛くて、詩集を閉じる。金色のリング、確か十五万円くらいした、そのリングの付けられた指の根元に、赤く深い皺が出来た。その皺を指先で強く擦る。今まで通っていなかった血がもう一度だけ、通うような感覚がしていた。生きていくための、生きていく理由になることを、指先で拾い集めている。

既に指なんて、爪の先まで壊れそうになっているが、手を洗うとやっぱり白い。白いし、爪の形なんてミリ単位で整えられて作られたものみたいに、綺麗。自分の指先が好きであることを私は、過去、未来、そしてこの少しずつ漸進する今、理解している。その指先で、生きていくための、生きていく理由になることを、拾い集め続ける。

指先で詩集の装丁を触る。スウェード生地みたいな手触り、本当はザラザラした方のタオル地みたいなのがいい、と思いながら触る。詩集の装丁に刺繍が施されていて、蛍光色で書かれているのはMasterpieceという文字。その文字はほつれながら、グレーの装丁に迸るように、崩れている。少しずつ日常が崩れることを望んでいる。誰もいない、白色の室内に、白色のボールと、白色の箱と、白色の電球が、置かれている。三つの白色の物体が、転がっているだけの白色の室内に、Masterpieceという詩集が置かれていることを想像する。日常は既に崩壊している。

既に遅かったのは、すべて。
何もかも遅すぎる。

指先で触れる、崩れている刺繍。糸のほつれを何度も繰り返して触る。そうして、拾い集めていく指先の感覚に、過去の喜びとか、過去の悲しみとか、過去の笑いとか、温もりとか、元恋人とか、父親の手の感触とかを、思い出してみる。あ、あれに似ている、とそう思うことで、また日常を整えていく。
日常を整えていくことに、終わりを見据えて、私や、私たちの、過去、未来、そして漸進する今を、やりこめていく。

もう一度、指先で刺繍を追う。開いた詩集を、浴室から漏れてくる微かな光を頼りにして、読む。




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