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noteは人間的な営み


初投稿の自己紹介でちょろっと触れたけれど、私は教育哲学のゼミに所属している。

哲学とついているから敷居の高い学問という印象を受けるかもしれない。
(実際、私自身も最初はそうだった。)

けれど私は、教育哲学を「教育において今まで”常識”だと思っていたことを、問い直し、知見を深めるための方法」というくらいの解釈をしている。
例えば、「何で学ぶ必要があるの?」「教師の役割とは」「教育における競争は平等なのか」などだ。

つまり、教育に関する色々な「何で」をみんなで共有し一緒に考えていく。

そしてありがたいことに私が所属するゼミは、教育だけに限らない「何で」も一緒に考えてくれる。文献や日常生活から感じた様々な「何で」をみんなでシェアし、それについて輪になり一緒に考える。
1人でぐるぐると考えるのも好きだけれど、みんなで一緒にぐるぐるするのもとても好きだ。

なぜ今こんな話をしたかというと、部屋を整理していたらゼミで書いた個人エッセイが出てきたからだ。

その日付が目に入った。

2021年12月7日

1年前のちょうど今日。 

びっくりした。思わず「あっ」っていってしまうくらい。

これも何かの巡り合わせなのだろうか。
せっかくなので、1年前の私が何を考えていたのか、そのエッセイの内容を皆さんに少し紹介したい。


問い
なぜ人間は物語をつくるのか。

問いのきっかけ
プラネタリウムで頭上に映し出される星空を見ながら、それぞれの星座にまつわる神話を聞いていたとき、ふと思った。

何で人間は物語をつくるのだろう。
何で昔の人は夜空に散らばる星たちを繋げて物語をつくったのか。
夜空にうかぶのは星だけでそこに物語があるはずないのに─。

問いに対する私の考え
創作という行為そのものが楽しいから。
 自分が望むものを生み出したい欲求と自分の考えを伝えたい欲求をどちらか、あるいは両方満たすことができる。

自分の存在を明確にすることができるから。
 物語をつくる行為は、自分のそれまでの経験やそこから得た考えを振り返り、願いや理想、想いといった自身の内的な部分とむきあい、それらを言語化していく作業ともいえる。
 経験や感情とむきあうことで、自分の存在を確かめているのではないか

他者とのつながりを感じていたいから。
 誰かに必要とされたい、自分は1人ではないと確かめたいという他者とのつながりを求めているのではないか。物語を享受する読者の存在。

まとめ
ただ単に楽しいからというだけでなく、自分の存在を確かめたり他者とつながったりすることへの欲求が、物語をつくることの根底にあるのではないか。私たちが生きている世界は常に変わり続け混沌としている。そのような日々の中で自分が何者であるか分からなくなったり孤独を感じたりするときがある。しかし、私たちは1人ではなく驚くほど密につながっている。これらを物語を創ることを通して無意識に確認しているのではないか。


と、ここまで1年前の自分が書いた文章を読み返しながら書いた。実際は3500字くらいのエッセイなので、上に記したのはめちゃめちゃ簡略化したものだ。

当時は一生懸命にかいたものだけれど、改めて読んでみるとツッコミたいところやもっと考えたいことが結構ある。物語だけで人生を語ることができるのか、物語と共感や感情移入の関連性、つながりのないものからつながりを見いだすことの意義、物語以外の創作、とか。あと物語の受け手である読者の立場からも問いについて考えてみたい。

エッセイの中にこんな文章があった。

人間とそのほかの動物の違いとして、創造力(想像力)の有無があげられる。人間は自分や他者がつくった作品を通し、自己の存在や他者とのつながりを確認しながら日々を重ねてきた。人間だけが物語を必要としている。つまり、物語をつくるという行為は、とても人間的な営みだといえる。

これをみてハッとした。

今まさに私がnoteでしていることそのままじゃん、と。

私も自分が何者であるか分からないから、日々考えていることや経験から自分という存在を探すため、noteをはじめた。
自分の存在を確かめるために書いているけれど、投稿したものにいいねやフォローがついたりすると、やっぱり嬉しい。
私のページを開いて私の文章を読んでくれる優しい方がこの世界のどこかにいるんだと。そう思うだけで、自分でも驚くほど前向きになれる。

つくり、つながり、届ける。

そして、確かめる。

これからもこの人間らしい営みを続けていきたい。


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