「本当の自分」とは何か
人はみんないつも自分、自分と言います。自分の考えと。
でもよくよく考えてみると自分の考えとは、すべてこれまで生きてきた自分史の影響を受けているようです。
日本人に生まれたから日本的思考をする。21世紀に生をうけたから21世紀的な考え方をする。私を含め人間一人前の顔をして「私の考え」と言っていますが、実は親からの遺伝的性格、生まれた環境、境遇、時代、教育、風習、習慣、経験、その他、一切諸々を織り込んだ、偶然的なものの寄り集まり加減に過ぎないような気がします。それをオレだ、自分だとレッテルを貼り、自分だと思い固めてしまっているようです。
過去の行為が、現在の心を作り出し、その現在の行為が、未来の心を作り出す、という行為と心の因果関係を仏教では「業」「業識」と呼んでいます。「業」は色々な条件が寄せ集まり、造作されているわけです。その「業」が突き上げて来るから、人間はそれに振り回されて業識的自分を「真の自分」だと思い違いをしている。
本当の自分(自己)とは、そのような業識をお返しして、新たな業を作らない姿勢から生まれると仏教は言います。
道元禅師は「正法眼蔵」で
「仏道をならふといふは自己を習うなり、自己を習うというは自己を忘れるなり、自己を忘れるというは万法に証せられるなり。万法に証せられるというは、自己の身心、および他己(客体としての自己)の身心を脱落させるなり」
と言いました。
そしてルソーは「エミール」で
「自然に帰れ」
と言いました。
道元禅師の、万法に証せられるというは自己の身心および他己(客体としての自己)の身心を脱落させるなり、も要するにルソーの自然に帰れと同じことで、業を捨てることを指していますね。この自然に帰るとは、自分に起きる様々な出来事をそのまま事実として受け止めることだと仏教では言います。つまり出来事に良い悪い、嬉しい悲しい等々の感情を付け加えないことです。
分っていてもなかなか達成することができません。この文章を書いている私自身も業を捨てきること、悟ことがができない愚かな66歳です。まあ、ある意味、「業」を捨てきることが出来ない私は人間らしいとも言えるかもしれません。所詮、言い訳に過ぎませんが。