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言いたいことがありすぎて何も言わないタイプの人
世の中や人間関係、ちょっとした会話の中で感じたことなど、ありとあらゆる場面で思うところはあるけれど、あえて口には出さないタイプの人間がいます。
私です。
というか、人間関係を破綻させないように気を配ることができるタイプの人間はほとんどみんなそうなのだろうと、私は考えています。
そういったタイプは自分の中ではよくその何か思うところについて考えていて、自分だけが見る日記みたいなものには書いたりしているので、そういうところでバランスをとっています。普段、周囲に不満を漏らしにくいし、空気を壊さないことや相手に直接的な攻撃をしないことを優先しがちなので、一見無害で優しい人間と評価されるのです。
しかし、優しい人がみんな、その思うところを赦しているとは限りません。
例えば、私の大学時代の友人に、人のことをおちょくって笑いをとろうとする人がいました。今ではその人のことを友人とすら思いませんが、少なくとも大学在学中は明確に拒絶しないように気を配っていました。
なぜならその人は、私に対しては明確に好意を伝えてきており、私に好かれようとしていることが、私以外の他人の目から見ても明らかでしたし、何より言葉で伝えられたこともあったからです。その時点でガードを張っていたものの、そのしつこさはスタンディングオベーションレベルの天下一品でした。
私は最初から親切丁寧に、きっちりと、言葉にしてお断りしていました。それでもなお、彼は私と、友人としては仲良くありたいと思っていたのでしょう。
ですが大学から離れた後も連絡を寄こすその相手に対して、私からハッキリと「もう連絡しないでくれ」といったほどの「しつこい人間」でした。もはや、しつこさに気付いていないことが可哀そうだと思えてしまうほどのものでした。
そのしつこさは、他人のことをいじって笑いをとろうとしている時に良く発揮されていました。今でも覚えています。
いじられていた張本人は私が当時仲良くしていた大好きな友人でした。その子はその場では気にしていない風に笑っていたりしましたが、本人よりも見ているこちらが不快になるような状況がよくありました。
私はそういう、空気読めてる風で空気の読めない面白くない人間が好きではないので、そのいじられていた子がその人に不満を言ったわけではないけれど、“私が”見ていて不快だったので「そういうの面白くないからやめな」と空気が壊れるのをわかっていてあえて言いました。
これが、あえて空気を読まないという奴です。
そのおもんないいじりをしていた彼が私たちを笑わせようとしていたことも、いじられていた人がそのいじりに角が立たないようにしていたことも、きっと誰から見てもわかったことでしょう。
そもそも私がその人のことをただ嫌いだったからそう見えただけかもしれません。
そうだったとしても、自分が大好きな友人が、別に仲良くもないと思っている人間からいじられているのを見て、我慢できる方がどうかしていると、自分を正当化しています。
これも一種のエゴだけれど、私には、優しい人間がいつも他人を赦しているわけではないことを知っているから、黙ってその野郎のおもんないじりを笑ってやることができませんでした。
そのおもんないじりマンがどういう性格で、どういう家庭環境であったかも知っているほどの相手だったから、自分のなかでは我慢して我慢して我慢した結果だったのです。
私も、一定期間はそのおもんないじりメンを見過ごしてやってきました。自分が言われる分には適当にあしらえばいいからよかったのですが、その子は明らかにそのおもんないじりメンから見下されていて、笑いに利用していいと思われていたように思えました。笑って見過ごしていたから、何度もいじられていた。それを横で笑えるわけがありません。それまでも面白くない奴だ、と思ってはいましたが、これほどまでに愚かなのかと、なんたら袋の緒切れた音がしたのです。
私が好きで大事だと思える人が嫌な顔をしているのを見るのは、自分が悪口を言われるよりも腹が立ちました。
振り返れば、自分のことで他人に対して直接何かを突きつけたことはなかったかもしれません。そう考えると、確かに私は外向的だと言えるでしょう。自覚がなかったものの、自分の気持ちを話すタイプでもなかったし、自分の気持ちが行動に現れるというよりは、外界のことを観察していたタイプでもありました。
最近、自分の怒りのトリガーが分からないなと感じて思考を整理していた時に思い出したことでした。そういえば、この時怒っていたんだな、と。
やはり自分の気持ちや感情に疎いみたいです。でも周囲の人間の気持ちはなんとなく感じることができて、それが大抵外れないばかりに、自分は気持ちのわかる人間だと誤解していたのでしょう。
人の気持ちに共感できることと、自分の気持ちを大事にするということが、イコール関係ではないということを身をもって理解できました。
あらためて自分が、自分の大事な人だけを守れればそれでいいのだと考えていると思い知らされました。でも、それでいいと今は感じています。
こうして自分の感情を思い出した時にでも書き留めておかないと、だんだん自分自身の気持ちの機微を感じ取れなくなって、本当に冷たい人間になっていってしまいそうだなと思います。
こんなだからこそ、怒れる人って素直で面白いし、楽そうだなと思えるのでしょう。怒ることも疲れるはずなのに、よく負の感情を頻繁にあらわにすることができるな、と思うのです。
今まで無自覚だったことも、言語化できる今なら、ああそうかそういうことだったのか、とわかるようになってきたと、思います。たぶん。
Q,芥川
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