[RRR]RRR考察 5)エッタラジェンガとナートゥ

考察5個目。おそらく映画の中で最も有名なシーンであるふたつのダンスについて。一連の本編考察はこれで最後です。本編以外であと2個あります。(なお今更ですが全部15RRR目の感想でした…その前にメモしてたこまごましたのはこれからも書くと思います。)
今までのはこちら。

★ひとの踊り、エッタラジェンガ

エッタラジェンガは宣戦布告であり祝祭である。
とかいうとまあ物騒だし、戦争を賞賛するような風潮も恐ろしいので、「宣戦布告であり祝祭」という概念はすこぶる抵抗があったのだけど、何度も見るうちにだんだんそうとしか思えなくなってきた。
血が騒いだら旗を掲げよう、だものね。そしてその旗はインド民族旗と森と水と大地と、なのですから。

ただ、解放闘争の宣戦布告とは直接結びつけない方がいいのだと思う。命の祝祭ってそういうことじゃないでしょ。背景に大砲や銃もたくさん出てくるけれどもモチーフ化、戯画化されているとも見える。何よりあの明るく楽しく、物語を祝福する音楽は戦争のためのものであってはいけないと思う。

では何への宣戦布告なのか?
私は問いかけだと思っている。君たちは戦っているか。日常への宣戦布告をしているか、日々おのれの責務と戦っているかという問いかけ。

そもそもエッタラジェンガは恐ろしい歌だと思う。
はじめて聞いたとき「マウリが殴りにきたソング」だと思った。8人のフリーダムファイターのことは全然分からなかったし(言い訳すると、チャンドラボースさんは知っていたけど、あの絵がチャンドラボースさんだとは分からなかった)インタビューを読む限りあえて各地のフリーダムファイターを集めて「知らないでしょ?」と突きつけてきているのだと思った。そこまで過激なことは監督は言わないだろうけど(本国では有名人だし)、ラーマとビームの物語と同じくらい壮大な物語が彼らにもある。
なおかつ、ラーマとビームの史実上の物語は実はこれからはじまる。三谷大河でいえば、新選組が京都に着いたところ、真田丸で源次郎が太閤殿下にお仕えしはじめたころ、鎌倉殿で鎌倉入りしたところ、くらい。そこで終わってくれたらそりゃあ楽しかったよね。本当に続き作るんですか…?

バガット・シンの背景でピンクの花火があがるのは単なるエフェクトだと思っていたけど、他の人のところにそんなエフェクトはなかったので、爆弾をイメージしてますよね…ラーラー・ラージパト・ラーイー…警棒…Fireのシーンとかなり密接に繋がってるなあ

ナートゥとエッタラのダンスを比較すると、完璧なシンクロを求めたナートゥに対してエッタラは2人+アーリヤーのダンスの個性を尊重している印象がある。英雄も人である。8英雄は人だからインドの独立すら見ずに死んだ。史実のラーマとビームも同じく。でもただ人だからと諦めず戦った。人であることはチャランくんとタラクさんもきっと同じ。簡単にデミゴッド扱いされちゃうけど、やっぱり中身は人で、個性があって、それでも必要なときにはデミゴッドであろうと戦っているのだと思う。

さて、翻って観客である我々はどうだろうか。個人として日々を戦っているだろうか。監督がどんどん叩けと煽ってくるぞ。

エッタラはもう実質マハーバーラタじゃないのかと思い始めている。日々が戦いである私たちにとって、アルジュナよろしく心が折れてしまう機会はいくらでも巡ってくる。それでも人としてのクリシュナ様のいないこの世界で、私たちはギーターを唱えておのれの責務を全うするしかないのである。そうしているかとラージャマウリに問いかけられる。さあ、血を騒がせて旗を掲げよう。エッタラジェンガが勇気をくれるはず。

★ナートゥは2人の未来なのかも

ここでいう2人はラーマとビームです。
ナートゥの2人を説明するのに、日本には素敵な言葉がある。和魂洋才。アレンジして印魂洋才とするとぴったりだ。
要するに洋服に身を包んだ二人がアヒンサーで白人を圧倒するのである。これは本当にあってほしい未来の一部を見た、と思っている。
平和でもひどい対立や差別はあって、それに教養と民族の誇りで立ち向かう。民族性のひとビームが作中で唯一洋服を着るのがこのシーンであり、近代性のひとラーマが英語で英国人を煽るという反骨精神を見せる。未来にあるべき民族性と近代性の理想的な融合が示されている。

ダンスもそう。異常なまでのユニゾン。とはいえ、フィギュアスケートのペアやアイスダンスを見慣れていると、まだ合わせられるなと思ってしまうのだけど、それは長年ユニゾンの訓練をつんできた世界レベルのトップアスリートと比較して、という話であり、本格的な練習は20日やそこらしかできなかった2人があそこまでやったのは本当にすごいしラージャマウリ監督は鬼である。(そういう意味でも(?)RRRの楽曲をフィギュアスケートで取り入れるとしたらペアかアイスダンスだと思っている。ユニゾンで圧倒してほしい。)
話を戻して、ユニゾンは近代性の象徴である。近代的な兵士はみんな同じ標準的な動きができなければ役に立たない。しかし、その根底にあるリズムは民族性の象徴そのものであるし、歌詞は精神を鼓舞するものである。そして2人の魅力的な表情、生命の喜びともいうべき肉体の躍動。民族性に裏打ちされたハッピーな感情が近代性のユニゾンでさらに魅力を増している。ナートゥの時点で2人の至るところは示されていた。

これだけだととてもふわっとした話で終わってしまうのだけど、ダンスシーケンス以外でナートゥのリズムがいつ出てきたかと考えてみたらぐっときた。ラーマが毒蛇に噛まれて瀕死になったとき。ビームがとらわれのラーマを探すとき。どちらもラーマが死にかけており、未来が閉ざされかけているときに、ナートゥのリズムがかぼそい生存への希望をたぐりよせてくれた。やはりナートゥは未来への希望なのだと思う。

そして、大変に蛇足ながら。未来への希望、未来のすがたとしての2人を重ねてみるなら、その時代は制約を受けない。そこにウクライナの美しいマリア宮殿はあるんだよ。美しい過去の記憶だけの存在には決してなってほしくない。私はいつか必ずマリア宮殿に行く。その日まで未来への希望でいてほしい。

★補足その1

この記事を書いた後、収録順がエッタラが最初でナートゥが最後だったと知って勝手にわが意を得たりという気になった。エッタラは日常であり、ナートゥが未来なら、演者にとってはその順番がよかったはず。

★補足その2

英語スクリプトでナートゥのシーケンスのジェイクの煽りをよんだらまじで教科書に載せられないレベルのひどい罵倒ばかりで、女性たちが一斉に顔をしかめたことに非常に納得した。(本気で知らない単語ばっかりで耳では雰囲気しかわからなかったし、藤井さんはとてもかなり上品にまとめてくださっている。字幕はそれでいいと思う。)
日本のファンダムだとジェイクって世間知らずのおぼっちゃまでインド人を見下している、くらいのかわいらしい受け止めをされていると思うのだけど、本質はそうかもしれないけど、あいつのセリフは全て悪意に満ちていた。まさかのジェニーにもめっちゃくちゃ上から目線。かんっぜんにヒールですね。そしてジェニーの返しがめちゃくちゃ男前。
おそらくこの映画の中で日本で一番有名なシーケンスだけど、辞書にあたると明らかにシーンの解像度が変わるやつなので、ぜひご自身で英語を読んでみることをおすすめする。

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