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「自分は死ぬ存在である」という前提で私たちは生きている

本当の安全を求めて~安住の地を求めて

私たちは、この世界から自由になることよりも、つまり、この世界の夢から目覚めることよりも、この世界に留まるほうが安全だと信じています。

この世界に安全といえるものなど何一つもないというのに、それでも私たちはこの世界のほうが天国よりもマシだと思っているのです。

なんという狂気でしょう。

まともに考えるなら、この世界に安全などないと分かります。

「自分はこの肉体である、この身体である」と信じているかぎり、いつ何時何が起こるか分からない、、、そんな世界の中に私たちはいるわけです。

「自分は死ぬ存在である」という前提で私たちは生きているわけですが、むしろ、それを証明するために私たちはこの世界を知覚していると言うことができます。

本当は、神の子であるはずにもかかわらず、です。

この世界がどういうものか?

ここがどういう世界であるか?

私たちがありのままに見るなら、ここには安全などない、ということを悟るでしょう。

けっして平安でいられることがないのが、この世界です。

安全は、この世界の中にはありません。

この世界には、安住できる場所などどこにもありません。

むしろ、この世界は死と隣り合わせの世界だといえましょう。

「自分はこの肉体である」「自分はこの世界に居る」と信じているかぎり、私たちは安全でいることなどあり得ないということです。

いわば、絶望です。

それがこの世界の真実です。

ただし、そのことを悟るなら、同時に、そこに真の希望があることを見い出すことになります。

では、本当の安全というものはどこにあるのか?

というなら、「自分はいない」「自分はこの世界にはいない」と自覚/認識したところにあるということです。

それだけが唯一の安全です。

それは、「いまここ」にあります。

それは、この世界の夢の外、つまり、時間と空間の外です。

そこだけが、唯一、絶対なる安全な場所です。

そこを、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)では、「戦場を超えたところ」(T-23.Ⅳ)というふうに表現しています。

なぜなら、そこはこの世界とは一切関係がないからです。

本当の自分(真の自己)はこの今もそこにいるにもかかわらず、そこがどこにあるのか?まったく忘れた状態になっています。


実在するものは脅かされない。
実在しないものは存在しない。
ここに神の平安がある。
ー『奇跡講座』テキスト序文よりー

奇跡講座/中央アート出版社


そのことを思い出すことだけが、私たちにとっての真の救いです。

しかしながら、私たちは、そのことをすっかり忘れてしまっています。

永遠なる安住の地、それをコースでは「神の平安」「天国」「神の国」というふうに呼んでいます。

そして、それを思い出すことを「目覚め」と呼び、コースはその道を示してくれている霊性の道だと言うことができます。

神の平安は今もここにあるということを本気で知りたいのなら、その道を歩まないことなどあり得るでしょうか。

そう、あなたは「自分は死ぬ存在である」とこれからも信じ続けていきたいでしょうか?

私たちは、その質問を自分自身にもっともっと問いかけていく必要があるといえましょう。


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