悟りを完全なものにしていく
学びの階梯について
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の学びのプロセスについて、ワプニック博士は「階梯(はじご)」という言葉を使って表現されています。
コース学習者の私たちは学びが進んでいくにつれて、「自分は身体ではなく、自分は心である」という自己認識へとシフトしていくことになります。
「自分は身体である」と信じているなら、学びの階梯の一番下にいるということであり、私たちはそこからコースを学びはじめることになります。
もちろん、ふだんの私たちは「自分は身体である」と信じているので、毎回、階梯の一番下から訓練をしていくということです。
心に戻って、心の自分を思い出していくこと、それがコースの実践で私たちに求められているものであるわけです。
そうしていくうちに学びのある段階で、「自分は身体ではなく、心である」という自覚が起きていきます。
言うなれば、ようやくそこからコース学習者は学びの階梯を上っていくことになると言うことができます。
ちなみに、階梯の一番最上の「実相世界」と呼ばれるところが、コース学習者の私たちが目指しているゴールなのだということを覚えておきましょう。
つまり、階梯の一番下にいるところから階梯の一番最上の「実相世界」と呼ばれるところまで、階梯を上っていくプロセスを私たちコース学習者はたどっていくのだということです。
この学びにはプロセスがあるのだということです。
そのプロセスは一っ飛びにはいかないということです。
学びというのは本当に一歩一歩ずつでしか進んでいかない、一段一段しか上っていくことができないというのが、私のコース学習における経験で実感していることです。
つまるところ、私たちは階梯の一段一段を知り尽くして、熟達していかなければならないということです。
もしその一つでも見落とすならば、階梯のプロセスを熟達(マスター)したとはけっして言えないわけです。
だとしたなら、階梯を踏み外してまた階梯の一番下に戻って、修練していくだけです。
そう、私たちは、毎回毎回、「自分は人間である」「自分は身体である」というところから訓練していく、つまり、毎回毎回、階梯の一番下から上っていく訓練をしていくということです。
コースにおける訓練は、まさにそういうものだと知っておきましょう。
真のアイデンティティーを完全に思い出すまで、真のアイデンティティーの自覚が完全なものになるまで、その訓練は繰り返されなければならないということです。
真のアイデンティティーの自覚が完全なものになるならば、たとえ幻想の中にいようが、もはやその幻想に惑わされる(脅かされる)ことはなくなります。
コースではそれを完全なものにすることを、「贖罪(分離は起きていないこと)」というふうに表現しています。
そうなることがコースを学んでいる私たちが目標としているものです。
そして、それを達成した世界こそが「実相世界」と呼ばれているものです。
この世界で起きることに、あるいは、自分の人生に起きることに、自分の身に起きることに一切に惑わされる(脅かされる)ことがないならば、この世界、この人生、この身体に意味、価値を見出すこともなくなります。
知覚しているものすべてに意味を見なくなるならば、何も起きていない、のと同じです。
そこには何も無いのと同じです。
そのようにして、幻想を知覚している世界(夢)が消滅するのだということです。
そのようにして、私たちはこの世界の夢から自由になっていくのであり、この世界の夢から目覚めていくのだということです。
一つ一つしか階梯を上っていくほかない
コースの思考体系を理解して、その理解に基づいた実践をしていくにつれて、上記に述べたような実相世界へと至るための階梯(道筋)が見えてくようになっていきます。
このコースという霊性の道はけっして曖昧蒙古とした霊性の道ではなく、むしろ、このコースは確実な霊性の道だと分かってくるということです。
このコースの学びのプロセスにはしっかりとした階梯(段階)があるということです。
学べば学ぶほど、そのことが感覚的に分かってくるようになります。
実践していけばいくほど、その階梯は明確なものになっていきます。
その「階梯」は、けっしてあやふやな階梯ではありません。
学びが進めば進むほど、それが確信に変わっていくだけでなく、その歩みのモチベーションもますます高まっていくといえます。
そうなっていくためにもっとも助けになるのが、ワプニック博士が解説する教材だといえます。
ワプニック博士の教材でコースを学んでいくとき、そして、その解説が理解できるようになっていくとき、そのことを実感することができます。
学びの階梯を一歩一歩上っていくごとに、ワプニック博士こそがその階梯を上っていった先達であることを確認することができます。
というのも、その階梯を上っていった者でしか語れない言葉がそこにはあるからです。
学びの階梯を一歩一歩上っていっていくごとに、彼が解説するその言葉の深い意味が理解できるようになっていくということです。
そうしていくならば、まさに時空を超えた視点(視座)が開かれていくことになります。
コースでは、その時空を超えた垂直方向の視点(視座)のことを「心の決断の主体」と呼んでいます。
それは、「これは夢である、自分はただ夢を見ているだけである」という認識と自覚のもとにすべてを包含して観察している視点だと言うことができます。
まるで平面的な時空間から垂直方向へと視界(ヴィジョン)が開かれていくような、そんな感覚と知覚がもたらされていくということです。
ただし、何度も申しますが、この学びの階梯は本当に一歩一歩しか上っていくしかないということです。
実際、私自身もそのことを痛切に実感しています。
つい、私たちは、一気にジャンプして階梯の一番上の実相世界に至りたいと思ったりもするわけです。
でも、このプロセスはそういうものではないということです。
ようするに、近道などないということです。
本当に一歩一歩でしか前に進んではいけないということです。
この道は、けっして容易い道ではないということです。
この道は地道な訓練を要する道なのだということです。
でも言い換えるならば、しっかり学ぼうという姿勢で真摯に歩んで行きさえすれば、確実に習得(修得)できる道なのだと言うことができます。
学びが進めば進んでいくほど、その「階梯」が確実に実相世界へとつながっているのが分かるようになるからです。
そう、その「階梯」がみえるからこそ、目の前の階梯を一つ一つ上っていけばいいのだというモチベーションにもなるのです。
覚えておかなければならないのは、この時間と空間の世界を知覚しているかぎり、つまり、時間の中にいるかぎりは、学びのプロセスというものがあるのだということです。
悟りを一瞥したからといって、それでこの学びが終わるわけでないということです。
たとえ一瞥したとして、この世界の夢の中にいる間は、脅かされることのない真のアイデンティティーを思い出す訓練をしていくのだということです。
これは、悟りを完全なものにしていく道なのです。
そして、そこには多大な努力と訓練を要するのだということです。
でも、しっかり学んで、訓練し続けていくならば、確実にその階梯を上っていくことが可能な道なのです。
この霊性の道は、聖霊やイエスに祈ってさえいれば救われるようなふわふわとした実践をしていくスピリチュアリティ(霊性の道)ではないということです。
このコースは、堅実でしっかりと地についた霊性の道であるということを知っておくと良いでしょう。