無自覚だったものを自覚していくこと
自覚する、認識する、明らかにする
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の実践について言えるのは、「見る/直視する/正視する」ということなしには、その実践はあり得ないということです。
つまり、それなしに「赦し」はけっしてあり得ないということです。
コースの実践で求められているのは、「見る/直視する/正視する」ということであり、それは習慣化されなければならないものであり、もっといえば、最終的には修得されなければならないものだということです。
「見る」とは、つまり、自覚する、認識する、明らかにする、というふうに言い換えることができます。
コースの教えの中心概念は「この世界は幻想である」「世界は実在しない」「自分は存在しない」というものなわけですが、そういうことをいくら知的レベルで(頭で)分かっていたとしても、または、いくら自分にそう言い聞かせたところで、ほとんど意味をなさないといえます。
私たちがしていかなければならないのは「見る」ことであり、もっといえば、コースの教えに対してまったく信じていない自分(の想念)を見つけ出していくことなのだということです。
そしてそれが、「愛を妨げている障壁」を聖霊(イエス)のもとに運ぶ、あるいは、聖霊(イエス)と共に見る、ということなのだということです。
実際、自分の内側を正直になって見ていくならば分かることですが、私たちは、この世界が幻想だとはまったく思っていません。
それどころか、この世界が幻想では困る、この世界は実在していなきゃ困る、とさえ思っています。
そのように個人的な自己を保持しようとします。
どんなに熱心なコース学習者であったとしても、そのような真理に対する防衛は誰もが隠し持っているということです。
ようするに、私たちは、じつのところは目覚める気などないし、むしろ、目覚めることを恐れているのです。
私たちがこの世界にいるのはそういうことなわけですが、私たちはその真実に無自覚なままになっています。
そして言えるのが、ほとんどのコース学習者たちが、そのことに無自覚なままで目覚めようとしていると言うことができます。
だからこそ、無自覚にあるそれらを明るみにして、見つけ出して、自覚/認識していくことが、私たちに求められているのです。
それは、無自覚だったものを自覚していく、ということです。
それなしに、訂正も、取り消しもあり得ませんし、もちろん、赦しも、目覚めもあり得ないということをしっかりとわきまえておく必要があるといえましょう。
ありのままに見るとは
コースが教えていることの理解が深まっていくとき、
この世界とはいったいどういうものか?
この世界で私たちは何をしているのか?
自我の思考体系とはどういったものか?
自我である私たちは何をしているのか?
そういうことにもっともっと自覚的になっていきます。
それがいかに狂った妄想体系であるか!
いかに自分はその狂気と同一化してしまっていることか!
そういったことも認識していくようになっていきます。
普段の私たちはそういったことにまったく無自覚な状態になっているといえます。
だからこそ、私たちはコースを学ぶ必要があるのだといえましょう。
そう、コースの教えに基づいてありのままに見ていくならば、それらのことが明らかになっていきます。
それが、「イエス、聖霊と共に見る」ということであり、それによって、訂正、取り消しがなされていきます。
ありのままに見るとは、コースが教えている通りに見るということです。
つまり、イエス/聖霊が見ているように見るということです。
イエスや聖霊は、この世界を、そして自我を、どのように見ているのか?
それを学び、それを修得(マスター)していくために、私たちはコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいるのだということを理解しておきましょう。