自我を手放せない、自我を握りしめている自分にどう対処していけばいい?
自我を手放せない、自我を握りしめている自分
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、「怒ってはいけません、攻撃してはいけません」というふうに教えているわけではありません。
「怒り、攻撃を手放しなさい」と云っているわけでもありません。
むしろ、コースは、私たちがそれができないことを承知の上で私たちを導いてくれているといえます。
コースのイエスは、私たちは自我と同一化してしまっており、それらを手放すことができないことを知っているのです。
ただ、コースのイエスは、「それらを持ち続けたくない」と望む意欲だけは必要だと、私たちに求めています。
ようするに、「怒り、攻撃は、正当化されるものではない」と教えてくれているのであって、日々の実践でコース学習者の私たちに求められているのは、自我を手放すことではないということです。
自我を手放せない、自我を握りしめている自分に気づいていくこと、そしてその自分を咎めずに見ていくことが私たちが日々の実践でしていくことなのだということを覚えておきましょう。
兄弟を罪なき者と見たいか
コースのイエスは私たちに、
兄弟を罪なき者と見たいかどうか?
ということを問うています。
そして、自分に正直になるならば、その答えは、「いいえ」であることが自覚/認識できます。
つまりは、兄弟を罪なき者とは見たくない、ということです。
むしろ兄弟を罪人として見たい、攻撃したい、咎め続けたい、、、そんな自分を自覚することができます。
ようするに、私たちは自我と同一化してしまっている、つまり、自我になってしまっているということです。
自我は、兄弟を罪人として見ることによって、罪を実在させることができるだけでなく、自分は罪から逃れられると信じているのです。
さらに、私たちが理解しなければならないのは、もし兄弟を罪なき者と見るならば、それを知覚している自分も無罪(罪はない)ということになり、つまりそれは「神からの分離は起きていない」ということであり、そうであるならば、個別、個人の自分の存在を主張していたい自己(self)は消滅してしまうわけで、そうなることを私たち(自我)は密かに恐れているということです。
私たち(自我)は、そうなることをひどく恐れているがゆえに、その恐れ(罪/罪悪感)を兄弟に投影したがるわけです。
コースのイエスは、そういうことも十分に分かっています。
ですから、私たちがコースの実践で求められているのは、そのことに正直になるということです。
つまり、自我と同一化してしまっている自分を正視するということです。
それが、「自我を、聖霊(イエス)のものとに運ぶ」「イエス(聖霊)と共に見る」ということの意味です。
それは、内側にあるものを明らかにしていく作業だと言うことができます。
自我を正視するなら、以下のようなことが明らかになります。
私は兄弟を罪なき者としては見たくありません。
私は罪を見続けていたいのです。
私は罪がないと困るのです。
なぜなら、個別のまま、特別なままでいたいからです。
その狂気さをイエス、聖霊のもとに運んでいくことが私たちがしていくことなのだと、コースでは教えてくれています。
自我を手放せない自分、自我を握りしめていようとする自分を自覚/認識していくことが、私たちの任務なのだということです。
自我を咎めることなくありのままに見るとは、自我とはそういうものであるということを理解していくということです。
それは、私たちがしていかなければならない必要不可欠な訓練なのだということを覚えておきましょう。
それをしていくことで、私たちは自我との同一化から離れて、自我から自由になっていくのみならず、自我を、そして自我がしていることを、たんなる嘘のジョークとして微笑んで見ることができるようになっていきます。
私たちは、小さな狂った考え(嘘のジョーク)に対して笑うことを忘れただけであり、その訂正として、私たちは笑って見ることを思い出す練習をしているのだということです。
それを練習していくなら、この世界の夢とは一切関係のない、一切影響を受けることない真の自己(真のアイデンティティー)が自覚されていきます。
つまり、自分とは誰で?自分はどこにいて?自分は何をしているか?が思い出されていくということです。
私たちはそれを目的にコースを学んでいるのであり、そして、それを目的としてコースの赦しの実践をしているのだということをしっかりわきまえてコースの道を歩んでいきましょう。