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霊的体験にまつわる自惚れや驕りなどに警戒していきましょう

ピリチュアルな探究の旅を振り返って

振り返れば、私にとって、このスピリチュアル探究の旅ももうかれこれ30年以上になります。

ずいぶん長い旅をしてきたと感じています。

この旅は、もはや時間という幻想を超えて、今この瞬間へと戻っていく旅となってきています。

そもそもスピリチュアル探究のはじまりとなったのが、仏教でいうところの「悟り」「解脱」というものを知ったところからでした。

それは私がまだ20代初頭の頃のことです。

「悟り」「解脱」という言葉を知ったとき、この世にそういうものがあることがとても衝撃的でした。

そういうものがあるのであれば、それを探究していくことがこの人生でもっとも価値あることではないか!と、直感的にそう感じたのです。

その衝動に駆られるかのように、私の関心は覚醒、解脱、悟り、真理といった一元論のスピリチュアリティへと傾倒していったのでした。

その探究の旅は、原始仏教、Yoga、チベット仏教からはじまり、やがては、非二元のスピリチュアリティのみならず、二元性のさまざまなスピリチュアリズムにも、その探究は広がっていきました。

そして、そんな私は2008年にコース(『ア・コース・イン・ミラクルズ』)と出会うわけです。

それまでにも、さまざまな霊的体験もしてきました。

覚醒体験、真我体験、無我体験、至高体験、、、

そのような幾度もの霊的体験はたしかに素晴らしいものではありましたが、でもその状態はいつまでも続くわけではありませんでした。

そこで探究が終わることはなかったということです。

ただ、2010年頃くらいからでしょうか、悟り系のスピリチュアリティ、ノンデュアリティのスピリチュアリティのブームが到来したこともあって、コース学習から離れた時期を過ごしたこともありました。

それでも、「何かがちがう、これが私が求めているものとはちがう」という感覚は拭い去ることはできなかったわけです。

そうしてまた、『ア・コース・イン・ミラクルズ』(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)という一元論のスピリチュアリティの道に戻ってきたというのが、私のいきさつです。

今も、コースは、私にとって有益なスピリチュアリティであるということは間違いありません。

ただ、私はもう自分自身のことをコース学習者だとは思ってはいません。

『ア・コース・イン・ミラクルズ』の学びを通して一元論のスピリチュアリティを探究している探究者と言ったほうが適切なように思います。

私は、コースでなければならないとは思ってはいないということです。

ただ、さまざまにある非二元や一元論のスピリチュアリティの中でも、コースのスピリチュアリティがもっともしっくるところがあるので、だからコースを学んでいるだけということです。

そんな私がコースを学んで感じているのは、スピリチュアルにほとんど興味がなくなってしまったということです。

スピリチュアルというものが何なのか?が理解されてくるならば、それらはただの茶番にしか見えなくなってしということです。

もちろん、それはコースを学んできたその成果だと言わざるを得ません。

これまでもさまざまな霊的体験をしてきたわけですが、コースの学びが深まっていくにつれて、そのような体験にはもはや価値を見出さなくなったといえましょう。

コースで言うところの「ヴィジョン」の知覚がもたらされるようになるならば、誰だってそうなっていくといえます。

「ヴィジョン」とは、赦し(悟り)の視点から見ている知覚のことであり、経験しているすべてが虚偽だと見えている知覚のことを言います。

それを「聖霊のヴィジョン」というふうな言い方もします。

そこでコース学習者が知っておかなければならないのは、それは、「溢れる愛」とか「光に包まれる」というようなものではないということです。

それは、たんに虚偽を虚偽として見ているだけ、です。

そこにはこの世界とは一切関係ない平安があります。

その平安こそが、愛に触れている状態と言うことができます。

ヴィジョンとは、そういうものです。

さまざまな霊的体験をしてきましたが、コースの学びが深まっていくにつれて分かってくるのは、すべて幻想ストーリーの中の体験でしかないということです。

つまり、どんな素晴らしい体験をしたとしても、真理からみるならば、やはり何も起きていないのです。

ここ(この世界の中)にいるかぎり、私たちがしていく実践、訓練はいつも同じです。

コースでは、その訓練を「赦し」と呼んでいます。

そして、さらにコースの学びが深化していくとき、私たちはコースすらも超えていくようになるということを知っておくと良いでしょう。

真理から見るならば、コースも幻想の中の産物であるということです。

コースが神聖というわけではないということです。

それは、この世には神聖なものなど一つもないことを意味します。

実在しないものが、神聖であるわけがありません。

すべてが象徴(シンボル)でしかないということです。

正確に言うならば、コースすらも幻想(象徴)でしかないわけですが、ただし、コースが教えているその内容は正しい心(正気)の思考体系の象徴であると言うことができます。

それが、コースの学びの深化に伴って明らかになったことです。

この私もまだ学びのプロセスの途上にいるわけですが、コースは学べば学ぶほど、コースの教えすらも超えていくことになるということでいえば、コースは本当に不思議なスピリチュアリティ(霊性の道)であると言うことができましょう。


「覚醒」「目覚め」の定義について

話を戻せば、私にとってスピリチュアルな探究の旅をはじめるきっかけとなったったのが「悟り」「解脱」というものへの憧憬だったわけです。

「悟り」と「解脱」というテーマでいうならば、コースはまさにそこへと導いてくれている霊性の道だと言うことができるでしょう。

コースでは、そのことを「神のもとへ帰る」「わが家へ帰る」という表現をしています。

そしてまた別の言い方として、コースでは「覚醒(再覚醒)」「目覚め」という表現もしています。

ここでコース学習者はコースでいう「覚醒」「目覚め」という言葉についてしっかり理解しておく必要があるといえます。

というのも、悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティで使われている「覚醒」「目覚め」という言葉と、コースで呼んでいる「覚醒」「目覚め」の言葉の定義がまったく異なるものだからです。

コースで言っている「覚醒」「目覚め」は、いわゆる、仏教でいうところの「解脱」なのだと言うことができるでしょう。

一瞥体験、悟りの体験といったものが「目覚め」ではないということです。

それは、自己(self)を超えていくということであり、この時空を超えて、死をも超えていくことを目指している霊性の道なのだということです。

コース学習者である私たちはそれを最終的にゴールとしているのであり、そのためにコースを学び、そして実践しているのだと言うことができます。

(厳密に言えば、「実相世界」と呼んでいるものがコース学習者が目指しているゴールです。)

ようするに、悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティでは、真理を一瞥しただけの体験を「悟り」と呼んだりしていますが、コースではそれが目標ではないということです。

たとえ「悟り」を一瞥したとしても、真の悟り、解脱の道という、さらなるその先があるということです。
(それを「悟後の修行」と呼んでいます。)

ようするに、コースの観点からみるならば、一瞥体験見性体験とは、真理を垣間見ただけのことであり、むしろ、そこからが真の悟り、解脱の道のりのはじまりであると言うことができす。

悟り系やノンデュアリティのスピリチュアリティのティーチャーさんやスピーカーさんたちの中で、どれだけの人がそのことを理解しているでしょう。

仮にもし、そういうことを理解しているならば、学びと訓練の必要性を自覚していることでしょう。

そして、そんな彼らは、究極の悟りの完成へと道を歩むことでしょう。

コースはそのようなを霊性の道であるということを理解しておくことは、とても重要だといえるでしょう。


薪を割り、水を汲む

コースの教えから言えば、どんなに覚醒体験、目覚め体験、悟り体験をしようとも、「自分は人間である」「自分はこの世界に存在している」というふうに知覚(解釈)しているかぎり、つまり、肉眼で見ている世界を信じているかぎり、それはまだ夢の中に入り込んでいるということであり、けっしてそれを目覚め(覚醒)とは呼ばないのだということです。

ようするに、この幻想世界にいるかぎり、私たちは学ぶべきもの、そして、訓練して修得していくべきことがあるのだということです。

たとえ一瞥体験、啓示体験をしようとも、自我の思考体系から自由になるまで、つまり、正気(聖霊)の思考体系を完全に修得(マスター)するまで、この世界を「教室」として学んでいくことが私たちに求められているということです。

むしろ、一瞥体験、啓示体験といった体験にこだわり続けるならば、コースの学びを見誤ってしまうことになるといえます。

そう、一見、コースの学びが進んでいるように見えている人でさえ、実際は、学びの階梯の下方に留まったままでいたりすることはよくあることです。

そうならないように、私たちは警戒していく必要があります。

コースを学んでいる者ならば、そういう兄弟の姿をまさに自分の教師として、それを自分自身への警告だと受け止めて、学びと実践を続けていくことです。


あなたには進歩と後退の区別もつかないのだから、自分でこのこと[智識に目覚めること]の責任者になろうとしてはならない。あなたは自分の最も大きな進歩のいくつかを失敗だと判断したことがあるし、最も深刻な後退のいくつかを、成功だと評価したこともある。(T-18.V.1:5,6)

奇跡講座/中央アート出版社


この時空間の夢を見ている間は、この夢(世界)を「教室」として、私たちはただひたすら学びと実践をしていくということです。

それは、偉大なる生徒になっていくことを意味します。

そのことにちなんで言えば、私たちの先達として何十年と学びと実践を重ねてきたワプニック博士の言葉が染み入るように入ってきます。


もし私たちが真にこの夢から覚めたいと思い、そして、自我との同一化をやめ、罪悪感の実在性を否定したいのなら、私たちは毎日の務めに励まなければなりません。心を監視し、自我の思考のすべてに警戒を怠らない、という務めに取り組まねばなりません。自分の抵抗、つまり、自分がどれほど「赦したくない、裁きを手放したくない」と思っているかを、自覚しなければなりません。人々が陥りがちな、霊的体験にまつわる自惚れや驕りなどを避けなければなりません。「昨日、イエスが私にこう言ったのです」とか、「啓示体験があって、神が私に語りかけました」とか、「素晴らしい光の体験をしました」など……枚挙にいとまがありません。これは、必ずしも、そうした体験が無意味だとか本物でないとかという意味ではありませんが、そうしたことは、霊的な学びの旅路においては、 本当に、挫折をもたらすものにもなり得るし、人々を脱線させることがあり得ます。、、、基本となる務めを怠りながら、偉大な霊性の教師や偉大なスピリチュアル・ヒーラーになろうとしない、ということです。

JACIMサイト別館 ビデオ「V#11: 薪を割り、水を汲む」より


私たちは、ときに、霊性(スピリチュアル)すらも隠れ蓑に使って、自我の欲求を満たそうとします。

それは、まさに、私たちがもっとも警戒すべきことだといえるでしょう。

それがいけないということではありません。

自分は何のためにコースを学んでいるのか?

その目的を見誤らないことです。

そう、日々、実践、訓練あるのみ、です。

私たちは、ぜひ、そうありたいものです。



参考資料:JACIMサイト別館 ビデオ「V#11: 薪を割り、水を汲む


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