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「私」と「世界」は二つに非ず

想念はその源を離れない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)の中で「想念はその源を離れない」という概念がよく出てきます。

それは、原因と結果は離れないということを意味します。

言い換えるなら、主体と客体は離れない、ということです。

この世界のことでいうならば、外側に知覚しているものは心の内側にあるものだということです。

つまり、「私」が外側の世界に知覚しているものはすべて、この「私」の内側で実在化させているものを外側に投影して見ているだけということです。

コースではそれを「内的状況の外的映像」というふうに表現しています。


投影が知覚を作り出す。あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものではない。しかし、それ以上ではないとはいえ、それ以下でもない。したがって、あなたにとって、それは重要である。それはあなたの心の状態を証しするものであり、内的状況の外的映像である。(T-21.In.1:1-5 )

奇跡講座/中央アート出版社


外側に見えている知覚は「投影」によって作り出した影にしかすぎないのであるなら、本当は外側には何もないということです。

そこには何も無いにもかかわらず、私たちは無を見て一喜一憂しているということです。

つまり、幻覚を知覚しているだけということです。

それが私たちの真実だといえます。

そこには何も無いのに、あたかもそこに世界があるかのように見えているのは、自分がそのように見たくて妄想/イメージででっち上げている以外の何ものでもないということです。


私は自分が見ている世界の被害者ではない。(Wp1,31)

奇跡講座/中央アート出版社


それはちょうど、夜眠っているときに見ている夢と何ら変わりないということです。

いわゆる、自分の「心」が作り出した幻想/幻覚/イメージをただ見ているにすぎないということです。

しかも、本当はそこには何も無いにもかかわらず、自分たちは「無」を見て一喜一憂しているわけです。

私たちが動揺するとき、それはつまりは、幻覚(幻想)、無に対して動揺しているだけなのだということです。

なんということでしょう!

それが真理(真実)であるならば、なんと私たちは愚かなのでしょう!

そして、さらなる真実をいうならば、

「私」が動揺しているとして、その「私」すらも実在しないわけです。

その真理を完全に受け入れるまで、私たちはこの世界の夢を使って訓練していくということです。

その訓練は、どのようなものなのか?というなら、

主体の「私」と客体の「この世界」は離れていない、別々ではない、

という知覚の仕方を修得していく訓練なのだということです。

それによって、私たちは「一なるものとしてつながっている一体性」(T-25.Ⅰ.7:1)であることをこの幻想の中で体現していくということです。

コース学習者の私たちはそれを目的としているのだということ、そして、そのためにコース学習者はコースの学びと実践をしているのだということを忘れないようにしましょう。


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