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「私は誰か?Who am I?」と問いかけるだけでは意味をなさないことの理由


私は誰か?Who am I?という実践について

先日の記事『私は誰か?Who am I?』の続きです。

前の記事では、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるだけではほとんど意味をなさない、ということを述べました。

それがどういうことなのかというと、つまりは、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるとき、その実践の意味合いが理解されていない場合に、そうなってしまうということです。

つまり、「私は誰か? Who am I?」と問いかけるとき、その問いかけが何のためのものなのか?を理解していなければ、いくら「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけたところで、それでは形式ばかりの実践になってしまい、それではまったく意味をなさないということです。

それというのも、

自分を何者だと思っているのか?
自分を誰だと信じているのか?

というとき、当然、私たちは「自分は人間である、自分はこの肉体である」と信じて疑わないわけです。

その状態でいくら問いかけても、けっして答えがもたらされることはありません。

「私は誰か? Who am I?」と問いかけることは、つまりは、自分が信じているものすべてが誤りであることを受け入れることなのだということです。

そのスタンスで疑問を投げかけていくとき、それはとても有益な実践となります。

それはかなり高度な実践であるともいえますし、じつのところ、「私は誰か? Who am I?」と疑問視していくことこそが、正気(正しい心/聖霊)の思考体系に戻っていくためのもっとも有益な方法だと言うことができるでしょう。

本気でその疑問を投げかけていくならば、私たちの心は開かれていき、真の知覚(ヴィジョン)がもたらされていきます。

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)ではそのことについて、「聖霊に答え(ガイダンス)を求めるならば、聖霊は必ず答えを与えてくれる」というふうに述べています。

それとは逆に、「自分は人間だ」と信じて疑わずにいる場合、「私は誰か? Who am I?」といくら問いかけたところでまったく意味をなさないでしょう。

仮に、答えがもたらされたとして、その答えは自我の思考体系がでっち上げた答えでしかありません。

知っておかなければならないのは、それが自我のでっち上げた答えでしかないにもかかわらず、コース学習者の多くがそれを聖霊のガイダンスだと勘違いしてしまうということです。

自我にとっては、自分の本性を忘れたままに「求めよ、されど見つけることなかれ」という答えの見つからない外的探究をし続けるのがその目的なのだということを理解しておきましょう。


それは自我自身には決して答えることのできない質問である。その質問、すなはち「あなたは何であるか」が疑念のはじまりであった。それ以来、自我は数多くの問いを発したが、どの問いにも決して答えたことがない。(T-6.Ⅳ.2:6-8)

奇跡講座/中央アート出版社


自我は、自分がいったい何者であるのか?自分の本性を忘れたままでいたいわけです。

ですから、自我の思考体系を信じて疑わない状態のまま、いくら疑問を投げかけたとしても、答えはもたらされることがないどころか、ますます不確かさへと誘われていくことになるといえましょう。

ようするに、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけるとしても、そこにはしっかりとしたバックボーン(形而上学)がなければならないということです。

コースの実践に当てはめて言えば、ただやみくもに「赦し」をしようとしたところで、そこに形而上学的な理解(基盤)がないならば、ほとんど意味をなさないということです。

「形而上学的な理解(基盤)」とは、つまりは、正しいものの見方、考え方のことです。

それは、コースでいえば、聖霊の思考体系と呼んでいるものです。

通常の私たちはその聖霊の思考体系を忘れてしまっていて、自我の思考体系しか知らない状態になっています。

なにせ、正しいものの見方、考え方、つまり、聖霊(正しい心/正気)の思考体系を忘れてしまっているわけです。

だからこそ、私たちはコースを通して聖霊(正しい心/正気)の思考体系を学んでいるということです。

言い換えるならば、それなしでは、コースの実践もあり得ないということです。

逆に、コース形而上学のしっかりとした基盤があるならば、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけていく実践がとても有益となると言うことができましょう。


価値観のすべてを疑ってみようとする意欲

コースでも、その実践として疑問視する(クエスチョニング/質問する)ことの重要性を教えてくれています。


このコースを学ぶには、あなたが抱いている価値観のすべてを疑ってみようとする意欲が必要である。(T-24.in.2:1)

奇跡講座/中央アート出版社


コースが教えていることの理解が深まっていくならば、その実践こそがつまりは「自我を教師とするのをやめて、聖霊を教師として招き入れる」ということなのだと分かってきます。

自我を教師とするのをやめていくならば、つまり、全面的に自我の思考体系を疑問視していくならば、確かさへと導かれていきます。

一方、自我を教師としたままで、自分は人間であると信じて疑うことがないならば、不確かさへとただただ導かれていくことになります。

つまり、コースの実践は、

自我を教師とするのをやめるのか?
それとも、
自我を教師としたままでいるのか?

その選択肢において前者を選択していく道なのだと言うことができます。

それを、コースでは「教師を選び直す」という言い方をします。

コースの学習者の私たちがしていけなければならないのはそれだけであり、その方法とは、自分のものの見方、考え方について全面的に疑問視していくということなのだということを覚えておきましょう。


「赦し」が実践できるようになるために

上記を通して述べていることを要約するならば、

コースを実践していくとはどういうことなのか?
それは何のための実践なのか?

そういうことが分かっていないならば、いくら実践しようとしてもまったく無意味なものになってしまうということです。

コースでは「赦し」という実践をしていくわけですが、それは、「赦し」のやり方や実践の方法がただ分かればいい、というようなものではないということです。

コースの「赦し」の実践をしていくためには、その基盤となるコース形而上学の理解がなければ、その実践もあり得ないどころか、学びの階梯を上っていくこともけっしてあり得ないということです。

要は、「赦し」を実践していくために、コースの思考体系(形而上学)の学びと、それをしっかり理解していくことが必須なのだということです。

コースの「赦し」を実践していきたいのなら、コースの思考体系(形而上学)を理解しなければならないのは当然なことです。

「赦し」とは、たんなる手段でしかないということです。

その「赦し」というものがどういうものか?が分かっていないならば、何のための実践なのか?ということになってしまいかねないということです。

コースを学んでいくのであるならば、コースを実践していくのであるのならば、しっかりとコースのメタフィジックス(形而上学)をしっかりと理解していくことが私たちに求められているということです。

つまり、繰り返し、繰り返し、コースの思考体系(形而上学)を学んでいく必要があるということです。

それは、コース学習者であるかぎり必修科目なのだということです。

逆に、言い換えるなら、そのコースの思考体系(形而上学)がしっかり理解されて、それが根付いていくなら、「私は誰か?(Who am I?)」と問いかけていくことは、心に戻って、心の自分を思い出していくためのとても有益な実践手段とさえなり得るのだということです。


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