すべてを一切脅かされることのない本当の自分を思い出していくためのレッスンとしていく
「肉体の自分」から「心の自分」へ
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)が教えていることの理解が深まるということは、それだけ聖霊の思考体系へシフトしていっているというふうに言うことができます。
そして、最終的には、聖霊の思考体系に完全にシフトして同一化することが、私たちコース学習者が目指しているゴールだといえます。
聖霊の思考体系へとシフトしていけばいくほど、つまり、コースの学びが深まっていけばいくほど、より自我に気づけるようになり、その自我に対して対処できるようになっていきます。
ただし、それは、動揺しなくなる、ということではありません。
動揺したとしても、動揺に対する見方(考え方)が変わっていくということです。
たとえ動揺したとしても、それが自我の力動であると気づくようになっていくならば、その動揺に対する取り組み方、向き合い方も変わってくるのは当然のことです。
むしろ、その動揺を、一切脅かされることのない本当の自分を思い出していくためのレッスンとして捉えるようになっていきます。
つまり、知覚の仕方が変わってくるということです。
その例の一つでいえば、この世界を「教室」として知覚するようになっていくということです。
それだけではなく、誰が訓練しているのか?ということについても自覚/認識されていくようになります。
つまり、「心の自分」へと自己認識(アイデンティティー)のシフトが起きていくということです。
そう、「肉体の自分」は動揺し続けたとしても、その動揺をきっかけに「心の自分」を思い出していくならば、何の問題もないと知覚することができます。
そのようにして、平安の教師(聖霊)と共にすべてを見るようになることが、その訓練となっていくということです。
すべては自分で自分に行っているということ
「心の自分」を思い出していくための秘訣は、すべては自分で自分に行っているということを自覚/認識していくことです。
つまり、自分はこの世界の被害者にはならないということです。
そうしていくことで、自分には選択の力があるということを思い出していくことになります。
「自分が自分で自分にやっているだけ」ということを思い出すとき、もはや他者はいませんし、外側には世界もないことが明らかになります。
すべてが「心の自分」が見ている夢(虚偽)であることを認識することができます。
それを自覚/認識したところから見ているとき、それをコースでは「イエスと共に見ている」あるいは「聖霊と共に見ている」という言い方をするわけです。
そこから見るとき、もはや、自我を見たとしても咎めることなく平安と共に(穏やかな気持ちで/微笑んで)見ることができます。
そして、そのように見ていくことがコース学習者の私たちに求められているわけです。
つまり、それを、
自我の教師と共に見るのか?聖霊の教師と共に見るのか?
というふうに言っているわけです。
そう、その双方の知覚はまったく異なるものだということです。
自我の教師と共に見る代わりに聖霊の教師と共に見るという訓練をしていくならば、「すべては自我が作り出した虚偽(実在しない/嘘)である」ということがはっきりと認識できるようになっていきます。
自我(虚偽)をただ信じていただけにしかすぎなかったことが明らかになっていきます。
ワプニック博士も次のように云っています。
「自我が問題なのではありません。自我を信じていることが問題なのです」
と。
動揺、苦痛、苦しみ、、、そういったものが問題なのではないということです。
「それらを信じていること」が問題なのだということです。
なので、その「信じていること」を訂正していく作業が、私たちが赦しを通してしなければならないことだということです。
そのためには、いったん自分は信じてしまっているということを自覚/認識しなければなりません。
そう、動揺こそが、そのことを知らせてくれる「愛の呼びかけ」であるわけです。
私たちがこの世界で体験している動揺について、そのように理解(知覚)するようになることが、私たちが学ばなければならないことだと言うことができましょう。
動揺しないようになるための訓練ではない
つい、私たちはコースの実践を、動揺しないようになることを目的にしてしまいがちになります。
つまり、動揺してはいけない、動揺があってはならない、という訓練だと勘違いしてしまうということです。
そのような実践をしているとするならば、個人の自分を自分だと信じたまま、その自分がこの世界でなるべく平安でいられるようになるための学びと実践になってしまうといえましょう。
それは、コースが目指していることではありません。
コースの学びと実践を通して目指しているものは本当の平安(神の平安)であり、それは、個人的な平安(自我の平安)とはまったく異なるものだということです。
個人の自分は、自我の投影でしかなく、実在していないのです。
個人の自分が動揺していようがいまいが、あるいは、個人の自分がハッピーでいようがいまいが、コース学習者の私たちに求められているのは、その自分とは一切関係のない真の自己(真のアイデンティティー)を思い出していくことなのだということです。
このコースの実践は動揺しない自分になっていくための訓練なのではなく、それとはまったく関係なく一切脅かされることのない本当の自分を思い出していくための訓練なのだということです。
いわゆる、ニセモノの自分から真のアイデンティティー(自己認識)へとシフトしていくことを目指しているわけです。
自我はどこまでいっても自我であるだけでなく、所詮、実在もしていないのです。
自我は動揺し続けます。
ですから、そういうことが分かっているところ(聖霊の視点)から、自我をありのままに見ていくことが私たちに求められているのです。
それが、自我を咎めずに見る、ということです。
自我は自我のままにさせておきなさい、ということです。
「赦しは、じっと静かにしていて、何もしない」 (W-pII.1.4:1)とは、そういうことです。
もし、自我を変えようとするならば、自我は実在しているということになり、自我にパワーを与えることになります。
自我にパワーを与えること、それが問題なのです。
だからこそ、コースの理論的なところ(形而上学)を明確に理解しておくことは、とても重要だといえるわけです。
その形而上学の理解が曖昧ならば、自我を変えようとして自我と闘ってしまうことになってしまいかねません。
つまり、そうすることが自我、つまり分離の想念を強めることになるわけです。
もしその自我を裁くなら、咎めるなら、あるいは、自我をどうにか変えようとするなら、それはもはやコースの赦しの実践とはいえないということです。
コースの実践では、動揺がいけないということではないということです。
動揺をきっかけに、その動揺を使って訓練していくわけで、そのための実践的手段が「赦し」なのだということをしっかり理解しておきましょう。