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コースはなぜ難しく感じられるのか

コースの教えそのものが難しいのではない

コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学ぼうとするとき、私たちは必ずその教えの難解さにぶつかることになるといえます。

そういう意味でも、コースを学ぶということについて言えば、そこには多大な意欲(モチベーション)を要するといえましょう。

ただ、私たちが知っておかなければならないことがあります。

それは、

コースはなぜそれほどまでに難解なのか?

ということについて、です。

そう、コースがとても難解に感じられるのは、コースの思考体系が難解だから、ということではないということです。

では、

何がコースの学びを難しくさせるのか?というと、

じつは、コースの教えそのものが難しいのではなく、自我の防衛機能(抵抗)が働くからなのだということです。

それよってコース学習を難しく感じてしまっているということです。

つまり、コースを学びたくない、コースの教えを理解したくない、という精神力動が無自覚に働いているせいなのだということです。

ただし、その力動は、私たちの自覚していない無意識のレベルで働いています。

私たちは目覚めていきたい、わが家に帰りたい、と思いながらも、同時に、そうなってしまうならこの「私」という個別の自分(自我)が消滅してしまうことを無意識のレベルでとても恐れているのです。

それゆえに、コースを学ぼうとするときにその自我の防衛機能が働くのだということです。

するとどうなるかというと、コースを学びたくないという気持ちになったり、たとえ学んだとしてもすぐに忘れてしまうという精神力動に突き動かされていくということです。

なにせ、それは私たちの自覚していない無意識のレベルで突き動かされているので、ほとんどそのことを自覚することができません。

それはまるでプロミングされているかのごとく、自動思考として機能しているのだということです。

だからこそ、私たちはそのことを自覚/認識していくことが求められているわけです。

そしてそのために、私たちはコースを通して自我の力動論について学んでいく必要があるわけです。

分かりやすい例が、私たちは自我の防衛機能によって、いともたやすくコースの教えを自分に都合よく歪曲しようとするということです。

たとえば、コースの教えを自分が携わってきたスピリチュアリティの枠組みの中にはめ込んで矮小して理解しようとするのです。

それによって、コースが教えている内容を本当に理解することができなくなってしまうということが起きてしまうのです。

そうならないように、やはり、私たちはコースの教えを地道にでも学んでいって、しっかりと理解していくしかないといえます。

コースが教えていることの理解が深まっていくならば、コースは私たちが思っているようなものではないということが分かってきます。

コースの教えを理解すればするほど、そのことが分かってきます。

コースが教えていることを真に理解するようになるとき、「コースを理解した、分かった」というようなことはけっして言えなくなってくるということです。

むしろ、コースが教えていることを真に理解していくならば、なおさら、その学びと実践の必要性と重要性を実感するようになるでしょう。


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