それは自我の終わり、自我の死、つまり、個人的自己の消滅である
思考を止めようとすることについて
ノンデュアリティ(非二元)のスピリチュアリティの実践において、ときに、思考を止めることを試みようとしたりします。
たしかに、静かに座って、深い瞑想に入っていくならば、(それにはかなりの訓練を要しますが、)それは可能だったりします。
ただし、たとえそれができたとしても、また日々の日常生活に戻っていくならば、思考はまた沸き起こってくることになります。
ようするに、外側の世界を知覚しているかぎりは、思考が止まることはけっしてないということです。
この世界を知覚する上では、常に思考を伴うということです。
というのも、思考が止まるとは、「自分」というアイデンティティーが消えた状態でしかあり得ないからです。
そう、「自分」という主体が消えるなら、客体である外側の「世界」も消えて、もはや知覚することすらもできない(恍惚)状態になってしまうわけです。
何が言いたいのか?というと、
思考を止めようとしてもそれは無駄です、
ということです。
日常生活を営みながら、考え(思考)が止むことはけっしてありません。
ただし、止むことなく沸き起こってくる思考(考え)に対して、自由でいることはできます。
それが、非二元を探究する私たちが目指しているものだといえます。
人生(のドラマ)が続いている間は、常に、思考は沸き起こり続けるわけですが、だからといってそれが問題ではないということです。
問題なのは、沸き起こってくる思考と同一化してしてしまうことなわけです。
沸き起こってくる思考を深刻に受け止めるとき、私たちは思考と同一化して、思考にのみ込まれていってしまうのだということです。
なので、私たちはいつも思考に気づいていくことが求められているということを覚えておきましょう。
そして、さらにもう一つ、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)学習者である私たちが理解しておかなければならないある重要なことがあります。
それは、もし思考が止まるならば個別性も特別性も個人性というものがなくなるわけで、私たちはそうなることをひどく恐れているということです。
それが自我の終わり、自我の死、つまりは、それが「私」という個人的自己の消滅となるなわけで、それを恐れているのです。
それゆえに、その「私」を保持するために、そして、この世界の夢を保持するために、思考と同一化している必要があるというわけです。
私たちは、自覚していない無意識においてそういうことをしているのです。
ですから、私たちは、その(自我の)精神力動に気づいていくこと、つまり、自覚/認識していくことなのだということです。
しかも、咎めることなく見ていくということです。
いわゆる、それが「自我を咎めずに見る」ということであり、コース(奇跡のコース/奇跡講座)で呼んでいる「聖霊と共に見る」という訓練なのだということです。
ちなみに、それに気づいて咎めずに見ている視点を「アウェアネス」と呼んでいます。
その視点に戻っていく訓練をしていくとき、次第に、思考との同一化から脱却することが容易になっていくだけでなく、
沸き起こってくる思考に対して寛容でいられるようになっていくと共に、そこに(神の絶対なる)平安がもたらされていくことになります。
ひいては、
自分が何者なのか?
自分はどこにいて、何をしているのか?
その真実が次第に体験的に明らかになっていくようになります。
そう、その実践(訓練)方法を、コースでは「赦し」と呼んでいるということを知っておくとよいでしょう。