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湖面に映る虚像の幻影に惑わされて時空の海をさまよう私たち

「無」について

この世界を現実だと信じているかぎりは、私たちは本当の幸せ、本当の平安にはなれないと、非二元の真理は教えてくれています。

というのも、この世界のすべてが幻想(虚像)でしかないからです。

そもそもこの世界が幻想(虚像)であるなら、つまり、無、であるなら、どこに幸せがあるというのでしょう。

たしかに、この世界に一時的な幸せといったものはあるかもしれませんが、それは儚く消えていくものです。

非二元(ノンデュアリティ)や悟りのスピリチュアリティに触れてきた者であるならば、誰もがそのことを知的には理解しているはずです。

この世界に幸せはない。

この世界すべてが、無、である。

仏教では、それを「この世は苦しみでしかない(一切皆苦)」というふうに教えています。

もちろん、コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)においても、それが中心概念となっています。

幻想は幻想であり、幻想でしかないということです。

それが何を意味するのか?というなら、

たとえ自分が幸せだったり、ハッピーだったりしたとしても、それも幻想でしかないということです。

もちろん、同様に、

たとえ自分が惨めだったり、不幸だったりしたとしても、それも幻想だということです。

幻想である世界に、幸せも不幸も存在するわけがありません。

無であるものに、何の意味があるというのでしょう。

であるにもかかわらず、私たちはこの世界で何をしているか?というなら、

「これはラッキーだ、これはなんて不運なんだ、いいことがあった、悪いことが起きた」と、

そんなふうに「無」を見て、そこに意味付けしたり、価値判断したりしているわけです。

その姿は、まるで妄想を見て一喜一憂している精神分裂病の患者と何ら変わらない状態だといえます。

心理学者のワプニック博士は、それにちなんでこの世界にいる私たちを「妄想型統合失調症」というふうな言い方をしていますが、その通りだと言うことができるでしょう。

もちろん、コースの中にもそのことについて述べられています。


あなたが見ている世界は、罪悪感により狂ってしまった者たちによる妄想的体系である。この世界をよく見なさい。そうすれば、その通りだとわかるだろう。(T-13.In.2:2-3 )

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは、肉眼で見えているものを見て、それがそこに存在しているというふうにまったく信じています。

それが幻想(妄想/無)であるにもかかわらず、です。

自分が知覚するものをまったく信じ切っており、本当はそれらすべてが「無」である、幻想であるとはまったく思ってはいません。


形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。(T-22.Ⅲ.6:7)

奇跡講座/中央アート出版社


私たちは知覚にだまされているにもかかわらず、それをまるで疑うことすらもしません。

そのようにして私たちは正しい見方ができなくなって、いわゆる真の知覚(ヴィジョン)を忘れてしまっています。

それによって、自分が誰なのか?(真のアイデンティティー)すらも忘れてしまっていて、それがの私たちの今の状態なのだといえます。

私たちがそのことを自覚/認識していけるようになるために、コースは私たちを導いてくれています。

そして、それだけではなく、その状態から脱却して、真の自己を思い出すための道(方法)を私たちに示してくれています。

コースは、そのような霊性の道だといえましょう。


幻影に惑わされないためにも

時折、SNSやYoutubeなどにおいて、スピリチュアリストさんやノンデュアリストさんたちが、自分がいかにハッピーであるかということを主張しているのを目にしたりします。

そのたびに思うことがあります。

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