ガリガリ君はエモエモ君 8/9(月)
エモいという言葉が市民権を得てから久しい。元々は感情が昂って言葉にしにくい何かが溢れ出した時に使っていたが、最近は拡張されてノスタルジックな時に使うことが増えてる気がする。これはあくまでも個人的な感覚で、「エモい」の本来の意味や出自などは知らないしあえて調べないで書いてますのでそこんとこよろしこ!
ヘッダー画像はガリガリ君を食べながら散歩したある夏の夕暮れなのだが、これも現代のエモの一幕であるはずだ。実際に体験してる自分自身がエモいと感じたので写真を撮っている。本当はここまで食べた時点でもう溶け始めたので、夏に外でガリガリ君を食べるのはしんどいね、の記録として撮ったのは内緒。
夏に外でガリガリ君を食べることは、エモさの概念としては申し分ないが、体現すると欠陥が多いこもがわかる。こういった「概念としてのエモさ」だけ先走っているケースは多く見受けられる。夏の夜の公園でする花火だってそうだ。そもそも手持ち花火が本当に楽しいのか疑わしいところではあるが、話がややこしくなるので花火は楽しい前提で話を進める。公園で缶チューハイを飲みながら花火をする。わざとブレた写真を撮るなどして、エモさを最大限まで高めて披露することは可能だ。しかし実態は蚊がめっちゃいて最悪だ。暑いし、酒はすぐぬるくなってまずい。
この現象はインスタ映えとして消費される物事も同じだ。本当に素晴らしいものもインスタ映えのくくりに入れられると陳腐になってしまう、そのフェイズにきてしまった。それは「映え」が流行したせいで、映えの皮を被った空っぽが市場を席巻してしまったせいだ。私達はあらゆるシーンで目利きを求められ、本物に辿り着くためにエネルギーを要する。エモも同じだ。肥大化した「エモい」を救えるのは個人の意識だけだ。何でもかんでもエモいで片付けずに、なるべく具体的に感想を述べることで解像度があがり、エモというスープが薄まることを防げる。
でもそれはしんどいので、最近は「よい」とだけ言うようにしてる。
特定の言葉を使うから消費されるのだ。なるべく抽象度を高くすればこの問題は解決する。
そう、時代はギャル語だ。イェーイ✌️アゲ〜⤴︎
おわり
明日のラッキー惣菜は「ポテトサラダ」
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