自己を理解するという自己否定
2020年が終わる少し前に25歳になった。学生として過ごした12年間と社会人になってからの7年間だか8年間もの時間があれば私のような100均の靴ベラ以下の性能を誇る脳みそでもいろいろな事を知ることが出来るようで、ビッグマックが美味しい事はもちろんのこと、なんと私はナタデココがココナツの発酵食品だという事までも知っている(ただ税金の事とかはよくわからない)
今回はそんな私が最近手に入れた自己理解の話。あぁ、ご挨拶が遅れてしまいましたね。ワタクシ、山椒魚です。高い所(ネクストステージ)からの挨拶、申し訳ありません。
要するにハッピーバースディってやつで、俺は今生まれた。自己理解を深める事で今日晴れて私はヒトモドキからアップデートしてヒトモドキ1.2になったのだ。
ここからが本題。今まで書いた私のnoteの8割は[人が好き過ぎる]というマガジンに収録されているのだけど、どうやら俺は「人が好き」というわけでは無いらしい。いや、もちろん人は好きだしコレに関しては俺が昨日好きだった人に彼氏が出来た報告を受けた上に「結婚するつもり」とか「彼は土日休みだから平日ならコレからもセックスは出来るよ」とか言われたのが原因では無い。会わねえよバカ。一切関係無い。ふざけんなバカ。マジでホントに無い。「結婚してからは流石に無理」じゃねえんだよバカ。自惚れんな死ね。
自己理解1個追加。「俺は見る目がない」
どうやら私は「人が好き」というよりは「人を嫌いになる」のと「人に嫌われる」のが大嫌いなようで、苦手な人はもちろん何人も居るし、「嫌い」と言っておいた方がウケるだろうな。という場面では「嫌い」という言葉をバンバン使うのだけど本心では交友を持っている人のほぼ全てが「好きだけどどうでも良い」に位置付けられているっぽい。まぁみんなそうだと思うけれど。それでも私は今までずっと自分が「人が好き過ぎる」側の人間だと盲信していたのでコレは大きな発見なのだ。
例えば先日、というか少し前に2回目の復縁を目指す女子大生の相談?みたいな物を受けた時、私はじっくり考えてみたが自分は復縁経験こそないにしろめちゃくちゃな喧嘩別れをした元カノとでも全然やり直せるな。という結論に至ったし、職場で鉄の塊を大上段から投げ付けてきた15個上の先輩や飲み会で前髪に火をつけてきた先輩、「デートがあるんで」と言ってめちゃくちゃデカいトラブルを隠して帰った後輩とも全然仲良くしている。さらに言えば私は高校1年目の春から秋にかけて集団でシカトされていた時期があったのだけど、その言い出しっぺとは今や10年来の親友だ。
は?全部意味わからんな。モノによっては金取れるだろ。狂ったろか。文字に起こすと嫌いになった方が健康的なんじゃないかとも思えてきたがそれでも私は彼らを嫌いになりたくは無いし嫌われたくないのだ。(鉄を投げてきた人にはもう嫌われているが)
そしてなぜ私が「人が好き過ぎる」と思い込んでいたのか。それは私の「嫌いになるのが嫌」と「嫌われるのが嫌」の比率にある。私のnoteをいくつも読んでくれている賢明かつ聡明な人間様方私の様なヒトモドキと違ってもう勘付いているだろうが「嫌われるのが嫌」が圧倒的に上。自分の価値やら自己同一性を他人に任せ切った愚かなヒトモドキは「嫌われる」を何よりも恐れている。頼むから誰か助けてくれ。銀河の果てまで抱き締めてください。
そんなヒトモドキが何故「嫌われる」事を恐れた結果、自分が「人を好き過ぎる」側の存在だと誤断したのか。それはひとえに馬鹿すぎるからだ。
無意識下で「自分の事を好きな人間の事、嫌いになんないっしょ〜」という神レベルの短絡的ハッピーポンコツクソバカシンキングをした結果なのだ。哀れ過ぎる。なんて愚かなんだ。誰か殺してやってくれ。
ただ好きな人は普通に大好きなので安心してください。まぁ俺に好かれたから何かあるわけでもないし。
こうして自己理解を深めたところで私は今までの生き方を変えられる程器用では無いので生きづらさは多分変わらないんだろう。1番どうでも良いのが自分なのは変わらない。
まさか自己理解を深めたら今まで名乗ってきた自分の「人が好き過ぎる」を否定する事になるとは思わなかったね〜。不思議だね〜。という話でした。そろそろ本気で閉じ方がわからなくなってきたので終わります。
それでは。