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書評 アンジェラ・サイニー『家父長制の起源』(初出:週刊現代)
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「家父長制」と聞いて少しうんざりしてしまうのは、定義があまりに広く複雑で議論ごとに違うことと、「家父長制」を否定する言説が牽強付会、とかく都合のいい母権社会のサンプルのみを引用しているように見えがちだからだ。
「家父長制」は望ましくない。ないがしかし、言説は公平であってほし
い。
とはいうものの、定義し説明しようとすれば膨大な事例やデータが必要となる。そんな火中の栗を拾う蛮勇をあえて行ったのが本書である。
著者はさすが科学ジャーナリストだけあって、チンパンジーやボノボにはじまり、新石器時代から現代のボコ・ハラム、タリバンまで、アジア、アフリカ、ヨーロッパなど古今東西の社会制度や運動の具体例を挙げる。そこで例証されるのは、時代や地域や宗教に関係なく父権社会も母権社会もあったということ。つまり家父長制を強いる際に「伝統」や「生来の性質」は理由にはならないということだ。
さらにいえば、権力者や男性だけではなく女性やフェミニストまでが、家父長制を認めたり助長していたことをも炙り出す。同性だからといって価値観や立場が同じではない。むしろ自分(と同種の人間)だけが助かろうとするのが我々なのだ。
「家父長制」は国家を運営するにあたって一見便利である。権力の集中は秩序を生み出すし、権力側の人々の自尊心も満たされる。ただ致命的なのは、国家を成り立たせるために必要な国民(人間)は女にしか生めないという点だ。女性を虐待すれば子供は増えない。そうなれば国家どころか人類の破滅なのだ。
本書の結論がどこへ向かうのか読みながら少しハラハラもしたが、曰く「家父長制」に対抗できるのはネットワークと思いやり、とある。
興味深いことにそれは今まで「女らしさ」とされてきた性質である。つまり「女」化こそが人類の生き延びる方策と本書は説くわけで、なんだか皮肉な気もするし必然という気もする。
さて、我々よ、いかにやいかに。
【本日のスコーピオンズ】
77曲目「Holiday(Demo Version)」
7th アルバム『Lovedrive』(1979)より。
前回に続いて今回もデモバージョンということで、
2曲前にある本番バージョンと珍しく聴き比べてみた。
デモと本番の違いは、本番が気持ちスローなのかな。
コーラスがちょっと違う?
うーん。
正直、違いはわからんかった。
感想は以上です。
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