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軽率でまわり道だらけの人生〜興味のあった広告業界から逸れていった話〜

私は、好きなキャッチフレーズが載った広告の切り抜きを集めるのが好きな高校生だった。 

そんな仕事をするにはコピーライターという職業があることを知ったのが高校2年生のとき。ノストラダムスの予言に怯えていた世紀末。

しかしそのためにどんな勉強をしたら良いかもわからず、しかも恋愛にうつつを抜かしていたあげく、高3の秋に彼氏から振られ、絶望的な受験期を迎えた。

結局、大した勉強をしなくても入れるような地元の外国語の大学に進み、入学後すぐに広告の基礎ゼミを受講した。広告代理店勤務を経て教授になった人のゼミだったので、この人について行こうと思った。

しかし、その後、1年間の交換留学を経験したことで広告への関心が薄れてしまう。

帰国後は、オープンキャンパスで留学体験を語ったり、外国人教授の手伝いをしたりすることが増え、次第に習得した言語を生かした職に就きたいという思いが強くなっていった。

就職活動は、商社やメーカーを受けるも、ことごとくダメ。ふと広告業界を思い出して、東京まで行って電通も受けてみたがもちろんダメ。田舎のFラン大の学生が身の程知らずだなと我ながら思った。

最終的に駅前留学NOVAに営業として就職が決まり、正直、あまり納得のいく結果とはならなかった。同じ大学から何名か決まっていて、特別感がなかったせいかもしれない。何も努力していないのに、突出したい願望だけは一丁前だった。

しかし、運命が変わる。
あと3ヶ月で卒業、と言うときに、地元の外資航空会社の市内オフィスの予約発券スタッフに急に空きが出て、教授推薦で、そのまま卒業前から働くこととなった。急展開に狂喜。その時、両親は別居していたが、一緒に暮らす母がとても喜んでくれたことが何より嬉しかった。

その会社では、本社から来ている外国人スタッフが3人、現地採用の日本人が、私を含め4人。

日本人の内訳:男性1人、女性3人。

私はそこから約2年間、8歳年上で、昭和のモーレツ社員のようなお局様が転職するまで、いびられることとなる。もう1人の先輩もお局様に合わせて厳しかった。

仕事が遅い、変なミスをする、気が利かないなどでこっぴどく怒られるが、お局様は寂しがりなのかアフター5にはよく誘ってきた。大抵は誘いに乗ってショッピング、ご飯、終電までカラオケに付き合った。帰りのバスに間に合わずタクシーを使うこともあり、金銭的にもとてもストレスだった。どうしても無理で断ったときは3日間無視された。

仕事中も、トイレに行こうとした瞬間に電話が鳴れば慌てて戻って電話を取る。そのままトイレに行けばきっと陰口を叩かれる。気づけば私は9時から17時までトイレに行かなくても大丈夫な体になっていた。

帰り道、よく泣いた。人生で、失恋以外の初めての挫折だった気がする。それまで挫折するほど打ち込んだものもない人生だった。

それでもその会社にしがみついた。辞めないことが、先輩たちへの復讐のような気がしていた。

そんな毎日の中で、ピエロになって場を和ませる元来のキャラがますます自分の中に定着していった。先輩たちが爆笑してくれると、認められたような気になった。

ときに、褒められることもあった。クレーマーの電話対応を押し付けられて、1時間以上、必死に対応したら、『すごいわ。これはあんたにしかできない仕事だったよ』
泣いてばかりだった日々の数少ない誇らしいエピソード。

そのうち、そんなふうに自分を押し殺して先輩たちに付き合いながら、来た仕事をただこなす毎日に飽きてきて、さらに高い環境に身を置いて自分を鍛えたいという思いが強くなっていった。

そのとき付き合っていた彼氏が東京に転勤になって遠距離だったこともあり、あまり深く考えずに3年間お世話になった会社と故郷に別れを告げ上京を決めた。25歳のとき。

2008年。北京オリンピックで、同い年の北島康介選手が『何も言えねえ』金メダルを獲った年。

上京後、2ヶ月ほど遊び呆けていた私だが、前職のツテで航空システムの会社にアルバイトとして拾ってもらうことができた。大変ありがたい話だったが、アルバイトでも良しとしたことは、振り返ると安易な判断だったと思う。後に、契約社員、正社員とのし上がるが、とても苦しい道のりだったからだ。

その会社は社員数150人ほどの規模で、東京本社のワンフロアに100人ほどが働いていた。
自分の業務が終わればみんなサッと帰るし、アフター5の付き合いを強要する人もいない。おそらく強要しようものなら、周りから白い目で見られるだろう。なんて素晴らしい環境なんだろうと感動した。

また、東京では広告の多さにも驚いた。山手線のホームでは華やかで大きな広告の看板がずらーっと並んでいて、電車が出発してもしばらく目に入る。

『人の多さと広告の多さは比例しているんだなぁ』とか、あちこちで見かけるラーメン屋やドーナツ屋の長蛇の列を眺めながら『行列そのものが宣伝なんだ』といちいち感激していた。

入社してから半年後に契約社員になり、営業で都内を周り、残業も多かった。取引先のお客さんとの懇親会を開催して体を張り、泥酔して帰宅することもよくあった。

付き合っていた彼氏とは同棲していたが、上京後半年で別れた。モラ男だった。

杉並区の木造30年のアパートで初めての一人暮らし。休みの日は昼まで寝るような生活。気が向いたら新宿や下北沢まで1人買い物に行った。

同じ会社の仲良くなった先輩たちは正社員で、業界的にも頻繁に行ける環境だったため、年に何度も海外旅行に行っていた。私は契約社員で住居手当てやボーナスがなく、奨学金の返済もあり余裕がなかったので、誘われても行けなかった。それでも、それなりに充実していて楽しかった。周りの人達にとても恵まれたと思う。

正社員になることが自分の目標になっていたが、何度も心折れて故郷に帰ることが頭をよぎった。でもまだ何も達成できていない、もう少し、あともう少し、と粘った。

そんなとき、いつかのお局様が東京に出張があると連絡があり、銀座で待ち合わせた。

懐かしくて泣きそうになった。
かつての恨みは全くなくて、東京で再会できた喜びしかなかった。

『相変わらず貧乏そうじゃん〜これ履いて堂々と営業しな』と自分では買えないキラキラしたパンプスを銀座の老舗靴屋で買ってくれた。

その後、新橋の美味しい焼鳥屋を案内した。

『あんたをしごいたのは、どこででもやっていけるようにだよ。東京で頑張ってんじゃん。正社員になりな。掴み取りな!』

先輩はずっと順調な社会人生活だったが、転職先で不遇な対応を受け、色々な思いをしてきたようだった。

(この時買ってもらったキラキラパンプスはもうボロボロだが、未だに捨てられない)

そうやって惨めでやりきれない思いも経験して、やっと正社員になれた時は嬉しかったが、その目標を果たした後は、好きな仕事ではないことに気づいてしまい、違う道を模索したいと思うようになった。

そんな話は以前こちらで書いた。

今は、もう何も言い訳の余地もなく、自分のやりたいことをただやれるチャンスが巡ってきている。

WEB広告運用。この仕事と、自分の強みとを融合させた形の本当にやりたいことが、最近ぼんやりと浮かび上がってきている。

そう思うと、今までの人生で無駄なことって本当に1つもないんだなと思える。

お疲れさま、これまでの自分。
任せた、これからの自分。

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