賞状あらし
一枚の写真がある。その写真の中には一組の親子がうつっていて、彼らは何やら机に向かって作業している。机に向かっている子どもは小学1年生の私。その私に覆いかぶさるようにして写っているのが私の母である。彼らは夏休みの宿題の読書感想文に取り組んでいるのだ。『スーホの白い馬』を題材として。小学1年生が読むには残酷な場面が多く、私は少し怯えながらその美しい文章と絵をぼうっと眺めていた。そう。実際ただ眺めているだけでその感想文は学校から賞をもらった。母親がその内容を全て考えだしたからである。私はただそれを清書したのみ。ほとんど母が書いた作文で賞をもらった私はその晩から眠れなくなってしまった。皆をだましていることがばれたら糾弾されるのではないかと恐れたのである。けれど母親に抗議することが私にはどうしてもできなかった。そういうことは年少時代にとどまらず、私がある程度分別の付き始めた年頃になっても続いた。母が下書きをし、彼女の指示通りに色をのせたポスターが市の優秀賞をとったことがあった。それを家族総出でみにいく。我が家ではそういった茶番が何度か繰り返されたのである。一応ことわっておくが、私は母親に宿題を手伝うようにと頼んだことは一度もない。すべて母が勝手にやってしまうことだった。私が多くの賞をとるのをみて、担任から「賞状あらしのコナさん」と異名までつけられる始末だった。今にして思えば何らかの嫌味だったのかもしれない。
母は常に何かに追い立てられている人だった。小学3年生の時、置き去りにされそうになって恐ろしかった記憶がある。その日私たち親子3人は、愛知県の春日井市から母の実家のあるT市に帰るところだった。金山駅の喧騒の中で、電車の案内をきいた私たちはホームに急いだ。その時である。のろのろとホームの階段を下る私たちをしり目に、母は一人さっさと電車に乗ってしまったのである。私はこの時本当に怖い思いをした。何しろ小学3年生である。ここで置いていかれてしまったら、自分たちだけで目的地に辿り着くのは難しいだろうと考えた。幸い気づいた母親が電車を降りてきてことなきをえたが、その時母親がいった言葉が今でも忘れられない。彼女はこういった。「本心がでちゃったね」と。長らくこの言葉は私の中にしこりとして残った。本心ってなんだろう、と。
ただその出来事があってから私はますます母を困らせてはいけない、今度こそ本当に見捨てられてしまうという思いを強めることとなった。そしてある程度成長して、この置き去り未遂事件があった金山駅をよく利用するようになってから気付いたことがある。T市行きの特急列車は1時間に3本、急行も入れれば6本も来るということに。分刻みで電車が滑り込んでくる都会に比べたらこれでも少ないほうだが、子どもを置き去りにしてまで急がなければならない理由はどこにもなかった。そしてあの「本心」についてもう一度思い巡らす。あまり考えたくはないのだが、母はむしろ積極的に私や妹を置き去りにしたかったのだということを悟った。母が私にとっての地面になってくれないことを私はうすうす感じていたが、はっきりと認めることはやはりつらいことであった。時間はたっぷりあっても心の中が常に忙しい人、それが私の母だった。
私は地元にいた頃、市の広報でみつけたカウンセリングに1年間通っていた。そこの先生がとても素敵な人で、彼女は私に戦友の証として手作りの賞状をプレゼントしてくれた。文面作りにとても苦労したのよ、と言いながら。賞状をもらって私は初めてうれしいと思った。
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