見出し画像

子どもの頃の私がにらんでいる

今年3月から、noteで毎日投稿を始めました。その頃思っていたのは、とにかく自分を知りたいということ。

最初に出してしまいたいのは親のことでした。

自分では冷静に書いているつもりでしたが、それまで溜まっていたものを吐き出す様に書いていました。

あれが嫌だった、これが嫌だった、って。


親にぶちまけたいとか、復讐したいとか、そんな気持ちはなかった気がします。言っても覚えていないだろうし、理解できないだろう。妹が親に不満を色々ぶちまけた時「こんなこと言われた‥」とショックを受ける姿を見ていて、自分はできない、自分までしてしまったら可哀想と思ったのかもしれません。

と、ここまで書いて、あれ?っと思いました。もしかして、妹がぶちまけたから私はできないって、ただの言い訳じゃないかって。


じゃあなんで言えなかったんだろう


いい子でいたかった?場を荒らしたくなかった?どうせわかってくれないから。どうせわかってくれないなら言ってもしょうがないと飲み込んだ。

親が傷ついたら可哀想と言うけど、ずっと我慢して飲み込んできた自分の方が可哀想なのでは?


そう思ったら、子どもの頃の私が前に立ち、厳しい目で見つめている気がしました。


ああそうか、私はこの子をずっと置き去りにしてきたんだな。そう思い「ごめんねもう一緒だよ」と伝えました。

この子は私の感情、好きとか、楽しいとか、嫌とか子どものような純粋な感情。

ずっと聞かない様にしてきた私の気持ち。


そうしたら「なんで」とかが、どうでもいいように感じました。恨むとか、誰のせいとか、オヤがどうしたとかそんなの関係なくて。

いや関係はあるんだけど、そんなことよりも、ただ、置き去りにしてきた子どもの頃の自分と「もう一緒にいる」ときめる。そのほうが大事なんじゃないか、それだけでいいんじゃないかそんなことを思いました。


この気持ちはまた、変わるんでしょう。でも、いま感じたことを書いておこうと思います。




本当は違うことを書こうとしていました。親のことをもう少し冷静に書こうと。

今の自分にとって邪魔になっている考えを取り除き変えるために、その大元になっている親との関係を見つけているんだと。

でも、違うところに行ってしまいました。

いわゆる、インナーチャイルドを癒すってヤツなのかもしれません。でもまだこれで何かが変わるのかはわかりません。やっぱり同じように振る舞ってしまいそうだし。

だけどこの、私をにらんでいる子の存在を忘れず、この子と手を繋いでいられる様にしばらくは意識してみようと思います。


覚えていられるかなー




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?