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書評:『ラーゲリより愛を込めて』

うちのシャワーは扉の外に給湯器のスイッチがあるタイプなのだが、よくそのスイッチを入れたかどうか忘れる。
全裸になり、冷たいシャワーが温水に切り替わるのを震えながら待っているときに、
「あれ、スイッチ入れたっけ」
と思うのである。
いや、服脱いだときに入れたはずだけどなーと思いながら、そのまま冷水を流し続ける。確認しに行くのはめんどくさい。だが冷水はいつまでも温水に切り替わらない。もしかして…と思うのだが、自分がスイッチを入れた可能性にかけて、もう少しだけ待ってみる。寒い。もしかしてこのままずっと寒さに耐え続けるのか俺は。
なんて考えていると、ようやく温水になり、
「なあんだ。やっぱりスイッチ入れてたじゃないか」
と思うのだ。
しかしこれ、温水になる可能性を信じているから素っ裸で冷水を流し続けられるのであって、そうではない場合、つまりスイッチを入れたかどうかが完全に定かではなく、その可能性が半々の場合、私はいつまでもシャワーが温水に変わるのを待ち続けられるだろうか。

ということを、『ラーゲリより愛を込めて』の原作を読み終えて考えた。
彼らはダモイ(帰国)を信じて極寒のロシアで重労働をしていたのだ。今は冷水だが、いつか温水に変わると信じているからこそ重労働に耐えられた。そりゃそうだ。今が地獄なら、その地獄から解放されることを信じるしかない。
だが、主人公たちは中盤、そのかすかな希望すらも半ば取り上げられる。
その絶望とはいかほどのものだったろう。
たかが日本の冬の、温水シャワーを待つ間すらも震えている私なのだ。それは文字通り、考えも及ばないほどの地獄だ。

『戦争は女の顔をしていない』で、次のような言葉がある。
「人間は戦争の大きさを超えている」
現代を生きる我々には想像もつかない人間性が発露する。
それが戦争というものなのだろう。
その残酷さと強さが、人間にはあるのだろう。
だがその中にも、微かな希望がある。今、空が青いこと、仲間がいること、歌を歌えること…。生きているのは「今」なのだ。生きているのは「人間」なのだ。
それを教えてくれるのが、『ラーゲリより愛を込めて』である。

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