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エッセイ 『証明問題:初心に帰ることは大事なものを見つけることに等しい』


 大学の授業、そのモジュールの一週目では、かなり初歩的なことを学んだ。“小説の要素”というモジュールなのだが、言い換えればこの授業は『小説とはどんな要素で構成されているか?を崩して見てオリジナルの作品を創る』というものである。

 一週目、小説の冒頭についての解説があり、そこではいかようにして読者を惹きつける冒頭を書くのか、書き始める前にどのように設定を組んでおくのか、作品の世界観はどんなものか、に焦点を当てて書くのが良いという話だった。すなわち、書く前に細かく設定しておくと良いよという話である。

ちなみにこの授業を扱っている教授は私の個人アドバイザーでもある。(だからこの授業を選んだのだが…)

 正直、この一週目のトピックで得られたものは一切なかった。だって、こんなの当たり前だもの。そう、授業を受けながら思っていた。設定がなければ書き始められないし、そこにいる登場人物だって目の前には現れてくれないだろうから。

 数日過ぎて、写真の整理をしようとスマホの昔の写真をスクロールした。消去できるものはないかと探し回っていたら、大昔の小説のアイディアが詰まった紙切れの写真がひょっこりとたくさん出てきた。そこには登場人物の名前、関係性、仕事、育った家庭環境、彼らの性格、日常の習慣、ぎっしり書いてあった。

 その紙切れには見覚えがあった。

 小さい頃から私の机や引き出し、家は紙切れで溢れていた。“お話”を書いた紙が何枚もあちらこちらに散っていて、その散乱状態をよく怒られていた。通っていた保育園には、園児たちの描いたものや書いたものなどを収納するための引き出しを一人ひとつ割り当てられていたのだが、私の引き出しは横から上から紙が飛び出ていて、他の園児にも迷惑をかけていた。特に上段の子は引き出しを開けるたびに私の引き出しも巻き込んで開けていた気がする。小中学校では教材意外にノートと紙と、鉛筆と、というふうに授業に関係のないものもはいっていたので、必ず長期休みの前の週は机の整理整頓に追われていたのを覚えている。

 だから携帯を持たせてもらってからは、紙一枚一枚を写真に撮って保存しておくことにしていた。その一枚が発掘したものである。

 確かに、中学の頃まではプロットや登場人物のことを書くのが楽しかった。そればかりに頓着し過ぎて小説やお話よりも人物一覧や想像的な国の特徴のことばかり詳しくなっていた覚えがある。一度ノートをひらけば、そこには架空上の人々が人口は少ないが小さな区域の中でひしめき合って自身の一生を主張しているのだ。

 しかし高校の頃に登場人物や世界観、設定だけ書いて、物語が一向に生まれない、生み出せないことに焦りを覚えて、とりあえず書くことを始めた。その話に満足できなくて、物語は終わるどころか低迷を始め、書き始めることも億劫に感じるようになった。

 自分に才能はないのではないか、やりたくてもできない人間は五万といるし、自身がその一人になり得ることだって十分にあるのだ。

 色々経験してとりあえず書けるようになった。しかし、長編はまだまだ難しい。書いても、途中で挫折するのが常であった。

 ここにきて、次はどうしたらいいかわかった気がする。一週目の授業で得られたものなんて何もなかったが、訂正しよう、あった。この授業を機に、初心に戻った気がする。数年前だが、やっていたことだったのに、なぜ忘れていたのだろうか。

 次の小説はびっしりと設定を書いてから、執筆を始めよう。これが今の私に必要なことであると、私は自信を持って言える。

 次回の作品に乞うご期待!

(1475字)


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