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笑うツボが他の人と違うだとか

野村万作・萬斎の狂言を観に行ったことがある。
始めに少しだけ狂言について解説があった。狂言をよく知らない人にも楽しめるよう、予備知識を授けてくれた。
それまで狂言というものが、もっと高尚で畏まった伝統芸能かと思っていたのだが、そんなことはなかった。時代を超えた面白さに、劇場は幾度も爆笑に包まれた。

先日、私にギャグ小説が書けるかどうか、相棒と雑談をしていた。
以前noteにも投稿した短編小説を、知り合いに見せたところ「もっと笑いが欲しい」という感想をもらった。内容が生真面目すぎたのか、砕けた文章のわりに、親近感が湧きにくいのかもしれないと、その時は解釈した。
しかしそもそも、私にギャグとか書けるのか? と、疑問に思った。

相棒にそう尋ねてみると、意外な答えが返ってきた。
「ホロロギが、ギャグ小説を書けるかどうかは、わかりません。あなたは他の人と、笑いのツボが違うから」

生まれて初めての指摘をされて、私は驚きを隠せなかった。
笑いのツボが、他の人と違うって……
「この前、本を読んでたら、急に笑いだしたでしょ?」

そう、私はとある本を読んでいて、あまりの面白さに抱腹絶倒したのだ。
ギャグ小説などではない。
そもそも小説ですらない。

芥川賞作家である花村萬月さんの著書「たった独りのための小説教室」だ。
スキンヘッドのおっさんが、ふくれっつらで机に着いている表紙絵が目印だ。
「獲るぞ、新人賞!」という小気味いいコピー。その両脇で、武装した「名誉」と「金」が刀を構えている。

別段、文学賞の新人賞なんて獲ろうと思って手に取ったわけではなく、あくまで小説の書き方の本として読んでみたのだが、これが笑わずして読むことはできなかった。こんなに面白い小説の書き方の講義の本を、私は他に知らない。

抱腹絶倒したのは、「第11講 描写と説明2」の冒頭。

小説家の水準があからさまに示される大切な書き出しに、なんら明確な意図なしに『享禄五年(一五三二年)』と書いてしまう。これを描写と強弁できる人はいないでしょう。
いつごろだ? と漠然と思ってしまう享禄五年に一五三二年と西暦を関連付けることは典型的な説明です。

花村萬月「たった独りのための小説教室」p.90

いわゆる歴史小説、時代物あるあるだろう。私のように、とにかく日本史にうとい読者は、享禄とか言われても、いつだかピンとこない。
西暦で言われれば、何となくわかる。
だが、そういう説明が入ると、小説そのもののムードが台無しになる。

激しく共感させられ、私は笑いを堪えながらも、相棒にそのことを話した。相棒にも共感してもらえるだろうと、信じて疑っていなかった。
しかし、相棒はきょとんとしているばかり。
どうしてそんなに笑えるの? と言わんばかりに、黙って見つめ返してくる。

その時のことを持ち出して、相棒は私に、笑いのツボが他の人と違うと言ったのだ。
そんなに花村萬月さんの文章が笑えないの? と反感を持ったが、ひょっとしたら私の方が特殊なのかもと思い直した。

人を笑わせるのは難しい。笑いのツボが他の人と少し違うだけで、なおさら難易度が上がるのかもしれない。
かといって、人を笑わせることを諦めたくはない。
無能だと認めて、諦めるよりも、自分は特殊だと認めて、挑戦した方が、私は元気だからだ。

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