見出し画像

溶けた740万円と、インドでカレー臭をGETした話

私がインドに旅立ったのは、郵便局から届いた一通の圧着ハガキがきっかけだった。

それは、740万円分の積立貯金が解約されたことを告げる通知。このお金は他界した父が私に遺してくれた大切なお守りで、いざというときのために、手を付けずに残しておいたはず。解約なんて、するわけない。

そのとき、姿の見えない夫と740万円の解約通知が、一本の線で繋がった。

私の父が24年間かけて貯めたお金をわずか半年で溶かした男性は、既に北北東の方向に逃亡していた。

2010年3月26日、遠方で開催された友達の結婚式から戻った日に、私は自分の離婚を悟った。

夫を愛せない妻と、ギャンブル依存症の夫の結婚生活

翌年、父の遺産を全てFXにつぎ込んで消えた男性との離婚が、正式に成立した。

思えば当時の夫は、今まで何度も家のお金をFXやパチンコで溶かしていて、玄関扉に家賃請求の赤紙が貼られることもしばしば。彼は「二度としない」を繰り返し、私は彼という人間を、1ミクロンも信じていなかった。

そういえば、解約届を受け取る少し前、彼に「保険証ってどこにしまってるの?」と聞かれたことを思い出した。なぜ、と聞き返すと、確か「どんな色しているのか見たい」とか、そんな適当な理由を言っていたっけ。そして私は、自分の財布から健康保険証を出して彼に見せたのだ。失敗だった。

保険証は、いつの間にか財布から消えていた。彼はしばしば私の財布からお金を抜いていたが、まさか保険証を抜かれるとは。

つまり彼は、定期貯金解約の委任状を自作し、本人確認のために私の保険証を持参し、解約に至ったのだ。当時の本人確認はそのぐらい緩かった。

そうして彼の金でも私の金でもなく、24年間かけて積み立てた父の金が、たった半年で跡形もなく溶けていった。

病床で「娘を頼む」と頭を下げた、痩せ細った父の姿が目に浮かばなかったのかと、私は彼を責めた。今ならそれも『ギャンブル依存症』の症状だとわかるが、当時の私は彼という人間を理解できなかった。

しかし、不思議と憎しみは感じなかった。むしろ同情すらしていた。私は最後まで彼を夫として『愛する』ことができなかったし、常に可哀想な生き物だと、どこか冷めた目で見ていたからだ。そんなパートナーと暮らしたら、誰だって自分の『有効性』を証明したいと思うだろう。

『結婚して家族を持ち、注文住宅を建てて末永く幸せに暮らす』という私の夢は、まっとうな人間でありたい、家族や周囲に一人前の人間として認められたいという、私のエゴだった。彼は、そんな私のエゴに何年も付き合わされた。

結局は私たちのケースも、よくある離婚例の1つに過ぎない。つまりはお互いに被害者であり、加害者でもあったのだ。

とにもかくにも、この時点で私の人生プランは変更せざるを得ない事態に追い込まれた。もう、『まっとうな人間プラン』は選べない。

全く違うプランを練りなおさなければ。そのためには、新しい価値観が必要だ。

価値観変えるならインド、という安直な発想

価値観を変えるなら、インドしかない。

なんと短絡的なアイデアだろう。「論理の飛躍だ」という意見も受け止めよう。しかしそのときの私には、そのプランしか見えなかった。

藤原真也の『印度放浪』、遠藤周作の『深い河』、そして『ダライ・ラマ自伝』をギュウギュウのバックパックに詰め込む。新婚旅行のために取得した青いパスポートの有効期限は、さいわいにもあと1年残っていた。上司の同情を利用して長期有給休暇を申請し、粛々と旅の準備は進んだ。

海外を全く知らなかった私は、インドからの生還率を60%と勝手に推測し、「万が一」の準備をしていくことにした。

まずはほとんどお金の入っていない銀行預金を解約し、口座を一つに絞った。遺品整理で恥ずかしい思いをしないよう、書きためていた日記を削除。
念のためパソコンの検索履歴もチェック。

曲がりなりにも当時の私は、法律事務所に勤めるパラリーガル。最後は、自筆証書遺言を作成して封印した。遺言の封書には、「開封せずに家庭裁判所へ持参するように」と付箋を貼る。
今なら私に何があっても、悲しむ人間は最小限で済むだろうという打算もあった。

遺書を手に取る母の背中がちらついたけれど、決意は揺るがなかった。

香港でトランジットした後、小ぶりな航空機に乗り込んだ。

『地球の歩き方・香港』を広げていた日本人が消え、座席は香港から帰国するインド人で埋め尽くされている。日本人どころか、欧米人も見当たらない。機内には陽気なヒンディーミュージックが流れ、スパイスと埃と汗のにおいが充満していた。

圧倒的なアウェイ感。インドは既に始まっていた。

体臭の変化と人生プランの変更

約2週間後、私は毛先までカレー臭が染みついた体で帰国した。

息も、汗も、排泄物も、私から出る全てのものからカレー臭が漂っていた。カレー臭が体に染みついたわけじゃない。私がカレー臭の源だ。

狭いアパートに戻ると、遺言書は旅発つ前と同じ位置に置かれたままだった。家具の配置も、明日からやるべき仕事も、明日顔を合わせる上司や同僚も、何一つ変わらない。

なのに、私の体臭だけが変わっていた。

海外に出るたび、自分の体臭が変わっていくことに気づいた。住む場所も仕事内容も給料も、何一つ変えられない自分だったけど、体臭が変わるだけで、なぜかレベルアップしている気がした。

そこからは、イスラエル、ウズベキスタン、トルコ、カンボジア、モロッコなど、宗教色の濃い国を中心に一人旅を続けた。

モロッコの砂漠に住むノマド家族。奥に見えるテントで、大量のハエ入りランチをいただいた。

強いカルチャーショックを全身に浴びて、自分の凝り固まった世界観を壊したかったのだと思う。

20代の頃は、まっとうな人間になったと、とにかく周囲に認めてもらいたいかった。そのためには、結婚、子ども、注文住宅が『アセット』として必要だと信じていた。結婚さえしてしまえば、とにかく死ぬまで我慢するだけでいい。長く見積もっても60年程度だろう。みんなそうしているし、それが大人というものだと。

ところが30歳になったとき、人生プランの変更を余儀なくされた。

新しい答えを見つけるためには、どうしても新しい価値観が必要だったんだろう。

何も否定しないということは、自分も否定しないこと

海外を一人で歩いて何か変わったかといったら、何も変わらなかった。私は相変わらず弁護士の下で働き、依頼人の愚痴を聞き、裁判所に急かされるただのパラリーガルのままだった。

そんな私でも、海外へ出て、生きて帰ってくることを繰り返すだけで、心の中に小さな誇りが生まれた。

今でも、結婚して子供を授かり、家族で注文住宅に暮らす友人たちを、羨ましいと思う。仕事でも何一つ実績を残せず、家庭さえちゃんと築けない自分を恥ずかしく思うこともしょっちゅうだ。

だけど、海外へ旅に出て、生きて帰ってきて、新しい体臭を身につける。これが私の人生だ。

唯一誇れることといえば、多様な生き方を、否定せずに受け入れられるようになったこと。おかげで自分の生き方も、否定せずに済んでいる。

カレー臭のオバサンを待つ白髪交じりのオジサン

30歳の私よ、人生はなんとかなる。実際、10年後ライターに転身したきみは、今きみが受けている試練を記事のネタにしている。

それに10年後には、今のきみの価値観とは正反対のパートナーがいる。ハンサムでもなければ若くもない、とにかく健康だけが取り柄で、妻を平気でイスラエルに送り出すような男性が。

ヨレヨレの服でバックパックを背負い、カレー臭を発して帰国するすっぴんのオバサンを、白髪交じりのオジサンが笑顔で待っている。

残念ながら、ハンサムな夫とかわいい子供、新築の庭つき注文住宅は手に入らないけれど、10年後のきみは、それなりに人生を楽しんでいる。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集