『人間の建設』No.40 「一(いち)」という観念 №1〈飛鳥ノ京〉
小林さんが、岡さん在住の「奈良」について語ります。私は未見ですが、春日大社の「砂ずりの藤」はきれいだそうですね。宇治平等院の藤を見た感動は今も忘れませんが、春日大社の藤もいちど見てみたいものです。
さて、小林さんの「奈良に身をひそめてたことがあって」という文章が気になります。恋多き長谷川泰子をめぐる、中原中也との三角関係の整理でしょうか。単身、大阪・奈良に移り住み、志賀直哉家に出入していたとか。
まあ、小林さんもモテたんですね。とはいえ、いまから百年近くも前の話ですから……。小林さんここでは熱が入って対談の主導権をとっています。岡さんは、あいだに二言三言はさむ程度です。
次に、蘇我馬子の墓、いわゆる「石舞台古墳」のお話。小林さんは掘り返されたことにおどろいたと言います。しかし、私が驚いたのは逆に、もとは土に埋もれていたということ。掘り返したあと埋め戻さなかったのですね。
時代が変われば常識も変わる、の好例ですね。私を含めて、むき出しの状態で岩が積まれた、いまの姿しか知らないのが現代人の大半でしょうから。
次に、本居宣長の話に移ります。小林さんは「本居宣長」を著わしました。相当研究されたのですね。
対談の続きで、小林さんは本居宣長のことを「ペケ」なんて貶しているように見せて、本心ではほめています。ただ、この辺りの小林さんは含むものがあるためか、意味深な言い方をしていますね。
小林さん、ここで本居宣長の思想を紹介しながら、文化財に対する心得ともいうべきことを披瀝しています。蘇我馬子の墓~石舞台古墳に対する行跡に対して、かなり辛辣な批判を胸に抱いているように見受けられますね。
いま、あのからっぽの姿でたたずむ「石舞台古墳」のすがたを脳裏に思い浮かべ、その即物的な呼称を思うとき、私が感じること、それはまさしく「空虚」なのです。
‐―つづく――
※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。