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分析的アンチワーク哲学③
・分析的アンチワーク哲学では、全ての差別問題はベーシックに解決できるという立場を取る。
①差別とは「労働:他人により強制される不愉快な営み」の狭い用法である。
差別とは「労働:他人により強制される不愉快な営み」の狭い用法である。差別とは、ある差異を背景に「労働」を行わせることである。
つまり、「労働」自体を解決すれば、狭い用法の差別を問題視しなくてよいのだ。このようにある差異に対して、個別に対応するのではなく、その根本要因を解決することを「公正:Justice」と呼ぶ。
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https://note.com/soltyy/n/n306ae43a0b38
反差別は個別対応で問題を解決しようとするが、反「労働」は抜本解決を図る。真の正しさとはまさにこのことであり、私達は反「労働」によって、反差別という仮の正しさの過剰、リソースを奪い合う世界から抜け出すことができる。
※分析的アンチワーク哲学は、言ってしまえば「労働」の地動説版の「ベーシックインカムを実現する方法」を目指している。「労働」の地動説になって、「ベーシックインカムを実現する方法」全編を読み直せば、真に豊かで、真に正しい社会を実現する方法を理解できる。そう主張する立場である。
②アンチワークにより全ての反差別を達成できる
そして、反「労働」は反差別を包括しているから、反「労働」を実現すれば、それより狭い用法の反差別は不要となる。
むしろ、反差別が強制であることは、それの本来的な意味としては本末転倒なのである。反差別が強制でも通用するのは、苦痛さが軽減される場合、真の正しさに限られる。そして、この本末転倒を仮の正しさと分析的アンチワーク哲学は呼ぶ。
よって、全ての反差別はある「労働」をより弱い「労働」に変える暫定措置でなければならない。
よってベーシックインカムという手段を取るかは別にしても、あらゆる反差別団体は、「労働」に対する公正な解決策を見いださなければならない。でなければ、反差別の中で競争が発生し、これらの活動は一部が解決できるとしても、多くが抜本的解決を図ることができない。いずれにせよ、反差別とは反強制、「アンチワーク」の狭い用法であるという認識は必要となるだろう。
③全ての反差別団体は味方になれる
それを前提とすれば反「労働」は、あらゆる反差別団体と協力できる可能性がある。反差別が強く人を駆り立てることは事実である。であれば、私達はその怒りの矛先をサイロ化された各論ではなく、反強制という全体論へと向けなくてはならない。
④分析的マルクス哲学との合流:共産主義者ほどにすぐに手を組める仲間もいない
そして、共産主義もまた全ての人が平等なパラダイスを目指しているのだから、全ての人が公正なパラダイスを目指すことには必ず協力してもらえる。
なぜなら、「労働なき世界」とは、共産主義の目指す世界よりもっと素晴らしい世界だからだ。
全ての人が平等に「労働」する世界ではなく、全ての人が平等に「労働」しない世界なのである。なくていい「他人により強制される不愉快な営み」を平等にする世界より、平等にしない世界のほうが素晴らしいのは当然なのだ。
だから、共産主義者は単に地動説になってもらうだけで、私達の凄く味方になってくれる存在である。強いて言うなら、マルクス本人が地動説で、資本論にこのことを書いてくれたら、今頃この星から「労働」は消えて無くなっていたかも知れない。ほんとあとちょっとだったんだよあ……。という分析的マルクス哲学を打ち出すことができる。
⑤反差別と共産主義は反差別に着目し、反「労働」に着目しない点で一致している。
しかし、それでもなお、私達は反差別団体や、共産主義者達ほどの熱量や怒りのパワーをもってして、反「労働」に動けるか?という問題に直面している。
ようは、人は現時点では仮の正しさへの怒りのパワーほどに、真の正しさへの怒りのパワーを持っていないことを認めなければならない。
なぜこれらが仮の正しさなのかは、上の図での抜本解決を図らない暫定措置であることから主張できる。この図を全面的に参考にするならば、平等や公平は仮の正しさであり、公正が真の正しさとなる。
当然、平等や公平も助かる人にとっては真の正しさとなるわけだが、それが暫定措置である限りは仮に正しい。
⑥なぜ人は公正になれず各論で革命を起こせるほど怒るのか?
人々が公正(反労働・反強制)ではなく各論(反差別)で怒りを爆発させるのは、人が限定的な共感性を強く持つためである。
これは、『humankind』で指摘される個々にスポットライトを当て、他の部分への意識を弱める性質から説明することができる。ここで沸く怒りの心理的特性もまた共感に基づくため、限定的な各論に陥りがちとなる。
そこで、公正への包括的なアプローチには以下の取り組みが必要となる。
1. 具体性と全体性の橋渡し:個別の問題を全体的な構造(反労働・反強制)と結びつける、「労働」の地動説への転換。
2.サイロ化された運動同士をつなげ、共通の目標として「公正」を掲げる。彼らの問題の根底に「労働」あることを指摘し、社会全体を反「労働」のための協力へと動かす。
3. 価値観の転換:反「労働」がベーシックインカムなどの非常に具体的かつ、現実的かつ、実現可能な目標であることを示す。そして、ベーシックインカムでなくとも、社会が「労働」の地動説になれば、多くの差別が解消されるという価値観を持つ。
怒りのエネルギーを全体的な公正に向けるには、具体的なビジョン、つまり「労働」の地動説になることが今すぐできることを指摘し、それが多くの個別問題を根本から解決すると伝えることが鍵となる。
⑦この結論:反差別とは反「労働」の狭い用法である。このため、反「労働」を実現すれば、反差別も実現できる。反差別は各論であり、互いに優先権を争う競争を行いリソースを奪い合う。つまり、ある反差別が別の差別となりかねない。競争はより過激になり、反差別は全体のリソースを切り崩してしまう。結果として「労働」となり、差別を解消できない。よって、それらのリソースを反「労働」につぎ込めば、多くの反差別が公正に解決されることになる。このため、反差別は平等や公平を求めるから仮の正しさであり、反「労働」は公正を求めるから真の正しさである。このため、人々はこの構造に気付き、公正かつ抜本的で包括的に問題に取り組まなくてはならない。その具体例が、労働のコペルニクス的転回、BIやティール組織だ。
しかし、人は『humankind』が指摘するように、共感のスポットライトを持つから、その意識を反「労働」よりもより強い怒りで反差別に向かわせがちである。この性質を加味した上でも反差別を反「労働」に向かわせることが求められている。このためには、やはり地動説として反「労働」を訴えていくしかないと考えられる。
⑧つまり、言ってしまえばこれらの各論の問題はBIによって解決可能な問題、つまり、基本的に「路頭に迷う恐怖」によって生み出されている。
そこで、路頭に迷う恐怖、働かざるもの食うべからずについて考えてみる。
分析的「路頭に迷う」という恐怖の過剰演出
路頭に迷う恐怖こそが、資本主義の真の精神からの逸脱を助長し、社会を害しているという結論は避けられないように思う。
https://note.com/kaduma/n/nb47d512e4d72
まず私の個人的な想いとしては、路頭に迷うことを恐怖に感じ、自分を失うくらいなら、自分を失わず路頭に迷うほうが遥かにマシではないか?ということだ。路頭に迷うことを人は悪く評価しすぎである。これを無くす方法は国債発行によるBIだとしても、この恐怖の過剰演出には別の考察をしなければならない。今回は資本主義社会において路頭に迷うことを分析してみようと思う。
路頭に迷うとはホームレスになることだけではない
まず路頭に迷うとは、本来の辞書の定義で言えば、「生活の道をなくし、住む家もなく、ひどく困る」ことである。住む家もなく、ということからホームレスを意味している。
たしかにホームレスを人々が路頭に迷うイメージとして考えれば、それは恐怖に映る。しかし、実際にホームレスになる人数は、年々減少しており、このイメージは妥当か考える必要がある。そして、ホームレスになったからといってそれが確定した死でもない。このため、人が路頭に迷う恐怖とは生物学的な死というよりは社会的な死のイメージだろう。
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路頭に迷いたくない……と実際に話しているケースを考えよう。家を失いたくない、ホームレスになりたくないと言うならば、そう言うだろう。そう言わないケースが多くあって、漠然としたイメージがある。少なくとも、ホームレスになることより用法が広い。
路頭に迷うというイメージは漠然としている
一人一人イメージが異なるが、それに漠然的なイメージ持つということは、今は迷っていないことを指している。もし本当に迷っていれば〇〇が怖いと具体的に想起するからだ。その具体的イメージが優先されると思われる。
路頭に迷うとは一種の被害妄想に近い状態
つまり、「路頭に迷う恐怖」とは「実際は路頭に迷っていないから、漠然とした路頭に迷う恐怖イメージに駆られること」だと定義できる。
つまり、現在の安定が失われる可能性への漠然とした不安で、空想の産物だろう。これは、被害妄想の定義から考えるとこれに近い状態であると言える。
被害妄想は、自分が危害を受けている、もしくは受けるだろうという内容の、継続的で苦痛的な、明確な根拠のない思い込みであり、内容を反証する証拠が提示されたとしても、継続される[注 1]ものである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/被害妄想
漠然とした根拠を出すことはできるので、これを恐怖に感じたからといって被害妄想に認定されることはない。当然、将来を適切に恐れることはごく自然のことである。社会に悪影響を及ぼすほど過剰に妄想し、恐れていることが問題である。
そしてその恐れは論理的な説明では軽減できない。ようは、ホームレスにならない方法はあるし、ホームレスになる人は年々少なくなっている、ホームレスは餓死を意味しない、といった証拠はあまり説得材料とならない。
当然、それを深く議論すれば、その人からその恐怖を和げる場合もあるだろう。しかし、このような議論が有効ならば、これほどに恐れる必要はなかったと思われる。このように考えると、この恐怖は準-被害妄想であると言える。より厳密に言えば恐怖感が強すぎて、もはや被害妄想に近いレベルに達している。ベーシックインカムが鬱病を治すという指摘が正しいならば、この路頭に迷う恐怖がその人の鬱の原因となっているのだ。
であれば、被害妄想が人の幸福度を下げるとの指摘があるように、この恐怖が人の幸福度を下げることは間違いない。そしてこれが準-被害妄想だと考えれば、これが持続する理由も類似すると考えることができる。ようは、説得が通じず、考えるほどに囚われていく構造があるのだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/被害妄想
このため、この恐怖が人に害を及ぼすならば、被害妄想の治療と似たプロセスで、治療・解決したほうが良いと思われる。ようするに、この恐怖に対して、BIが原因療法ならば、対症療法も存在する。
そして、準-被害妄想ならば、説得や治療は被害妄想と比べれば容易であることも確かだろう。
⚠️ここでの被害妄想という言葉の注意点
ここでの被害妄想という言葉は、自己責任論ではない。分析的アンチワーク哲学は、当然それを社会のせいだとして、根本から解決しようとする立場だからだ。実存が構造に強制されるとき、いかに私達は抵抗するべきか?考えることが今後の哲学だからだ。
しかし、本人の用法としてその用法……自己責任論になることは多いにあると考えられる。つまり、本人は自分の手でしか解決できないとしているのだ。被害妄想にはそのような社会的な意味が含まれている。ないものを恐れているから自分のせいだろうと。そのような価値観の強制こそがその解決を難しくしている。その理由も本文で取り上げる。
路頭に迷うという恐怖の対症療法
まず、この恐怖感は現代人を取り巻く心理であり、薬物治療を必要とする病理ではないから、心理社会的療法しか使うことになる。※当然、これが実際の被害妄想の主因であるにせよ。
そこで、示される方法は、本人としてできることは、一歩下がって客観視し、現実的な対策を模索することである。ようは、BIを実現すればいいんだ!などと考えることで、この恐怖感を柔らげることができる。
例えば、アンチワーク哲学や「ベーシックインカムを実現する方法」の議論に参加することで、十歩くらい下がってこれらの問題を俯瞰できる。こうした議論はそれをするだけで対症療法となるのだ。結局のところ本人がどこかで自覚的にこの漠然とした恐怖を避け、具体的に適切に恐れるよう試行錯誤するしかないと思われる。
智者でない我々は、どの恐怖に対してどの程度努力してどの程度の予防策を講ずるのがいちばん快楽が最大化するのか、そのちょうどいいところがわからないので、試行錯誤してみるほかないようである。
なんだか少々頼りない結論になってしまったが、それでも、何の指針もなく死の恐怖や老後生活資金問題や投資詐欺に振り回されているよりは、現在抱いている将来についての恐怖を最小化し現在の快楽を最大化するという指針があるだけずいぶんましなのではないかと思う。
https://matomo-shobo.com/posts/lWS6MW60#index_BmKKQR3G
・周りの人のこの恐怖を治療するのは難しい
周りの人を治療する場合は以下のアプローチになると考えられる。
妄想の否定を強制することは避けるべきです。妄想は本人にとって「真実」であり、その否定や説得は『労働』となりえます。
適切な対応のポイント:
1. 妄想の否定・肯定つまり強制を避ける
妄想内容には触れず、不安な気持ちに共感し寄り添う姿勢を持つ。
例:「不安だったね。一緒にいれば大丈夫だよ。」
2. 患者の安心感を優先する
気持ちに共感し、安心感を与える声掛けを心がける。
3. 相手の伝えたいという「力への意思」を尊重する
妄想が続く場合も「また同じか」と片付けず、淡々と話を聞く。
繰り返しになるが、否定も肯定もせず患者の気持ちに寄り添うことが基本です。
これが準-被害妄想だとした場合、困るのは、やめろと伝えれば『労働』となり、逆効果になりかねないことだ。
かといって国でもない個人が、その相手にベーシックインカムを配るわけにもいかない。結局のところ、まずは相手を安心させることが対症療法となる。この根底には、相手に価値観を強制せず、価値観を強制する構造を緩和していくことだろう。
・問題は社会による過剰演出
しかし、社会はこれを治療しようとせず、むしろ路頭に迷う恐怖を真理のように伝え、この被害妄想を悪化させている。これもまた「労働=他人により強制される不愉快な営み」であり、その目的が生産活動ではなく政治活動であるから、アンチワーク哲学(地動説)から見ると一切不要となる。
では、なぜ社会は人々をこの恐怖に駆り立てなければならなかったのか?
これは、暴力による間接的な支配、誤った労働観、不安を煽る政治活動によるものである。これを考えると、分析的アンチワーク哲学から見ると、社会が天動説(「労働」を前提とする社会)だから起こっているのだ。
1. 間違った「労働」観
「労働」は尊い(「労働」価値説)、「生産活動」は辛いといった価値観の強制により、恐怖を利用する。この価値観が、「生きるためには働かなければならない」「働かないと路頭に迷う」という信念を人々に刷り込む。
2. 支配構造
恐怖を煽り、「労働」に従順な個人を形成し、既存の支配構造を維持しやすくする。路頭に迷う恐怖が、強制する役割を果たしている。
3. 不安を利用した「政治活動」
恐怖や不安を利用し、保険、投資、不動産などの政治活動を促進する。この仕組みが、恐怖を社会全体に広める原因となっている。
これらのうち2と3は副次的な要因であり、根本要因となるのは、1の間違った労働観である。
しかし、その根底にあるのはやはり強制されるほどにやりたくなくなり、より強力な強制が必要となるという負のループだろう。強制にはこのような性質があると考えている。
これらの問題点は絡み合って、連鎖して恐怖感を増やしているのだ。これらの強制の元となる価値観が、人々を反「労働」から各論の認知リソースの競争へと駆り立てている。これが競争の問題点なのだ。
つまり、やはり天動説であるから、多くの社会問題が生じているという根底に突き当たることになる。やはり、「労働」の地動説こそが今後の社会を切り拓くと言える。
結論1:路頭に迷う恐怖とは、辞書上の定義ではホームレスになる恐怖であるが、実際の日常イメージはこれとは異なる。ホームレスは『FACTFUIINESS』が指摘するように年々減少しており、さらには、年々ホームレスは死に直結しなくなっている。このため、人が路頭に迷う恐怖を実感するとき、生命の死に対する恐怖よりも、社会的な死に対する恐怖があると考えられる。しかし、このイメージは漠然としており、もしも本当に路頭に迷っているならば、具体的なイメージとして恐怖を抱くはずである。このため、路頭に迷う恐怖は、実態のイメージと乖離しており、『被害を受けるだろうという内容の、継続的で苦痛的な、曖昧な根拠のある思い込み』であり、準-被害妄想から被害妄想の類であると考えられる。このため、この恐怖感は幸福度を下げることが心理学的に認められる。このため、被害妄想に対する対症療法と同じくして、この恐怖感を和らげる必要がある。しかし、今の社会はこれを弱めるどころか強化する方向に働いている。これを解決するには、やはり価値観を「労働」の地動説に変え、どうすれば解決できるかを個人-社会、いかなる段階でもより具体的に考えていく必要がある。この恐怖イメージが具体的であるほどに、恐怖感は適切な恐れや備えとなり、被害妄想は解消されていく。アンチワーク哲学はその議論だけで、漠然とした恐怖を具体化させて、人の「路頭に迷う」被害妄想を薄めていく効果があるのだ。ただし、被害妄想はある段階を超えると、事実を突きつけることが、その人に対する「労働」となり、かえって症状の悪化を招く。このような場合には、直接明示して議論することを回避し、その人の感情に寄り添う必要がある(そこまでいくと被害妄想かも知れない)。もしも、それほどに症状が悪化していないのならば、『労働』の地動説となり、恐怖感を自発的になくしていくほうがよい。これが路頭に迷う恐怖に対して、国債発行によるBIが原因療法であるとき、対症療法となる。
結論2:この対症療法を特に必要とする相手は、財政破綻論者である。
財政破綻を恐れる者は、国債発行によるBIが配られた時も、国家が破綻してBIが止まるのではないかと考え、路頭に迷う恐怖感を無くすことができない。このときは、BIによる原因療法ではなく、「労働」の地動説による対症療法で挑むしかない。
そして、BIは結局のところ実現しなければその正しさが実社会で証明されないのに対し、「労働」の地動説は倫理(功利主義かつ義務論)のトートロジーなのだからほとんど議論の余地がない。これを理由として、彼らからは別のアプローチで、路頭に迷う恐怖を緩和しなければならない。
結論3:「労働」の地動説は、BIの安定供給に対する不安感を弱める効果を持つ。
そして、BIは根本療法としては、安定的かつ半永久的に配ることを国家は保証する必要があるが、政府が信用できない場合は、ここに不安を残し続けることになる。BIをやめる政党がまた現れたらどうするのか?という話だ。そこで「労働」の地動説は、この政府への不信感や不安に対抗する価値観となる。BIという手段と比べ、地動説は遥かに論理的にも、倫理的にも認められるものだからだ。
結論4:「労働」の天動説の根幹
最低でも人間の加虐性にはある集団や自信への共感が必要であり、これはあるトロリー的な状況を当人は意識していることが前提としてある。もしも、反「労働」を意識できれば、それを履行できる善性を人は普遍的に持つ。これは『humankind』が強く主張している。ではなぜ今この社会が「労働」の天動説であるかというと、「労働」が必要であるという「労働」主義が社会の根幹にあるためだ。
より具体的に言えばどこかで「労働」しなければ、より大きな「労働」をしなければならないという日常イメージを天動説は持っている(これについてはオマケで説明する)。このため、「労働短縮論」は天動説なのである。これが労働短縮論と労働撲滅論の違いだ。
そしてこれが、人に準-被害妄想を与えているから解消できなかった、という振り出しに戻る。
つまり、アンチワーク哲学はこの価値観の問題点を突きつけ、天動説に風穴を開ける地動説となった。分析的アンチワーク哲学は、社会に対する対症療法として、「労働」の地動説を強く推し進める。
おまけ:行為論「自己行為所与」と「他者行為所与」による、現実を作るイメージ像
さて。分析哲学から離れて、現象学からもアンチワーク哲学を見てみよう。人は何かを認識するとき、自らの行為イメージと、他者の行為イメージを同時に抱いている。
「ド」の音が聞こえるだけでも、それがピアノの音ならばピアノの鍵盤を弾く人のイメージや、ベースの音ならばスラップされるベースのイメージがセットで含まれる。この時、私が弾いているか、別の人が弾いているか、その楽器が動くところだけのイメージを持つかはその瞬間の心持ち次第だ。
しかし、これがその印象とイメージが同時であることは間違いない。このため所与である。このイメージは、その「ド」の音が悲しそうとか、嬉しそうといった印象「情動所与」とは区別される。
「自己行為所与」では、自分がある行為者になる感覚だけでなく、その物体に自身なる感覚が与えられる。これは対象が人間でないこともある。ピアノを弾く演奏者になりきった感覚もあれば、音を出すピアノとしての感覚もあるのだ。グルーブ感といった一体感は「情動所与」との一致から生まれてくる。
一方で「他者行為所与」では、行為者を俯瞰したときの感覚と、その状況を他者として眺める感覚が与えられる。その演奏者が弾く様子や、ピアノの鍵盤が動く様子、スラップによって響く弦の振幅などである。これがその音のノエマを与えられた時点で所与されている。
このため、人は実際には感じていない多くのことについて考えを巡らせるのだ。それは自分としての立場、そのノエマとしての立場、それに付随する立場である。このため、人は元より感じていない多くのことの繋がりを想起してしまうのである。これが人間が「本体論」にしがみついた理由だ。
それを事実だと判断するのも、事実だと理解たらしめるのも結局のところ自分である。それらの裏に回ることはできない。これは祖先以前的言明であっても変わりようはないのだ。恐竜がいるという妄想、情報一つもなしにかつて恐竜がいたなどと言うことはできない。
行為論は、欲望論ほどには、思弁的実在論や唯物論を否定しない。人はそもそも自分がいない状況を想起させる行為所与を感じるからだ。
この「ド」の音は本当にピアノから鳴っているのか?そう行為所与を疑うことができる。しかし、それはあくまで「ド」の音とピアノの関係である。
そして、人間的な意味や価値について言及するためには、いかに科学的な議論をするにせよ、結局のところ人がどう感じているかをどこかで挟まなければならない。それは、恐竜が妄想か観察の裏に回ることができないのと同じだ。
私達が客観だと感じているものは「他者行為所与」を根底として構築されており、実際は主観なのである。他者ならこう思うだろうというイメージ像があたかも客観という本体論を生み出しているのだ。このため、客観的なものは結局のところ自らの欲望-行為相関的なのである。
このため、思弁的実在論のような試みは、仮に宇宙の探求に有力であったとしても、人間的意味や価値について言及することができないのだ。
このため、社会哲学は行為論でなければならないとの考察を得ることができる。もっとも形而上学的に唯物論であったり、思弁的実在論であったりすることを否定はしない。人にはそう考えたくなるクセがあるからだ。それを論破に掛かることが行為論の目指すところではない。
それでも、これらの試みから人間が感じることを引き出せない限り、そのような試みにしか使うことはできない。だから、物理哲学や科学哲学として思弁的実在論や唯物論があるとしても、社会哲学として思弁的実在論や唯物論が成り立つことはない。
本体論とは別種のエポケーである。クオリアの消去みたいな。
本体論とは、人間的意味や価値に対するエポケーなのである。人間的意味や価値を鉤括弧付きにすることで、「俺たち人間のことはどうでもいいからエビデンスはよ」となっているのだ。
行為論は欲望論とは異なり、そのような試みそのものを否定はしない。人間がそのような感覚を持つのに、その想いを否定するのは本末転倒だからだ。
しかし、人間が行為し、社会を営む限り、どこかで私たちが感じているイメージ像達に当たる。それは哲学者がエッセイや、論文を書く行為を行う以上、どうあがいても分析哲学つまり、論理実証主義&言語ゲームから逃れられないのと同じだ。これと同じように社会哲学は人間がどう感じ、どう行為するか、を考える行為の哲学なのだ。
このため、行為論は社会哲学の基盤となる哲学である。ようするに、言ってしまえば社会問題とは、行為に対する共感の問題なのである。
今後の哲学を考える上で、どのような説が定着していくにせよ、哲学者が哲学をする上で必ず行わなければならない経路に対する哲学は、残る。もしも、もし哲学に何らかの影響を長らく残したいならば、この経路依存的な哲学を提唱することが戦略的なのだと思う。哲学者は何かを感じて、何かの目的のために、文章を書くし、何かを変えようと、何かの説得を試みる。この経路に焦点を当てれば、分析哲学のように結局のところ覆されてないし、倒されていない哲学となると思われる。
メディア論的転回:アクターネットワーク理論と欲望論のセット
そして行為論こそが欲望論にアクターネットワーク理論を組み込む最適な方法にも思われる。ある人が作品を書く時、その登場人物がその作者をある意味書いている。この双方向の絡み合いがアクターネットワーク理論であった。
しかし、ここで一切の本体論を捨てたとすれば、その作者の他者行為所与が、その人の価値や意味と絡み合っている。作中の人物に入り込んだり、俯瞰することによって、その時に感じたイメージがその人の価値や意味が作られていくのだ。
このため、人はノエマ・ノエシスおよび所与との絡み合いで感覚を得ている。これはすぐそばで話す他人に対しても同じである。
共感するとは、自己行為所与と他者行為所与を合わせることである。だから逐一思弁を回さずとも、そのイメージを感じた瞬間に共感することができる。
このとき、自分が相手の側に回った気になるのであって、実際に回っているわけではない。それに、明確な合意を取るだけでなく、何となく分かるといった漠然としたイメージが与えられることもある。これらイメージは、後から追って共感しているだけでなく、イメージが湧くその瞬間に出てくるのだ。
こうして行為論は他者との関わり合いを深く描けるようになる。よって、メディア論的展開(アクターネットワーク理論)と、現象学の欲望論の中継ぎとして、行為論を描くことができる。
行為論と分析的アンチワーク哲学
・行為論と強制
では分析的アンチワーク哲学に戻って、行為論を用いて強制について考えてみる。
強制が起こる時、例えば母親から子供が「勉強しなさい」と言われて元々勉強したかったのにやる気を無くしたケースを考えてみる。
この時、行為論ではノエマ、ノエシス、情動所与、自己行為所与、他者行為所与が感じられる。
「勉強しなさい」、勉強しなければならない、ガミガミしたイメージ、勉強させられている自分と自分が母親だった時の立場、その命令を俯瞰した時の感覚などである。
他者行為所与は共感に反するとき、相手への内心へ疑念を与えることになる。そんなことを言わなくても勉強するのになぜ命令するのだろうと。この時、相手との不一致が起きるにも関わらず、自らが打って出て相手の下手に回ることが苦しいのだ。まだ自分が母親だったならば同じことをすると思っているだけ苦痛は楽になる。
①服従:自己行為所与を他者行為所与に合わせる。
このため、他者から強制されたと感じた時、自らの自己行為所与を強制し、強制元と共感することで自らを楽にしようとする。このとき、その人の価値観もまた強制する側へと染まっていくのだ。またその命令に従わないと更に怒るなど脅しが含まれている。このため、その脅しと戦うわけにはいかないと諦めを生み出す。人はそれをより恐れるから、どこかで諦めて従おうという空気感を出す。これが恐ろしいのは所与としてイメージが付きまとうからである。母親がそばにいるだけで勉強を強制してくる存在としてのイメージが付き纏ってしまうのだ。
②反発:他者行為所与を自己行為所与に合わせる
次に、自分が正しいという信念も残す場合を考えてみる。このとき、母親がいる時は勉強をするフリをして、母親がいない時は恐る恐るゲームをする。こうして、ゲームにさえブルシット性が付与させることになる。それに反発すればするほど、自己行為所与と他者行為所与の不一致が起きてしまう。そして、強制されると人はよりやりたくなくなる。よって、より強い強制が必要になり、戦争状態になる。親を無視することさえ選ぶだろう。よって強制は自己行為所与と他者行為所与の中での不和を生み出す。他者行為所与のたびに嫌になる、勉強に嫌なイメージがついてしまう。これを嫌っているのだ。
よって、以下のようになる。
他者行為所与によって強制されると感じると、
①他者行為所与に抵抗する
→敵対的なイメージが付与される。
②自己行為所与を服従する
→諦めが生じる、より強制されるのではないかとのイメージを抱かせる。相手の価値観に合わせようとして、自らも強制者となる。
③表向きで服従する
→他の行為にも強制のイメージが付与される
このため、強制とは与え方と、それがなぜ必要なのかの共感を無視していると感じられる場合、いかなる態度を取るにせよ、嫌なイメージを拡大させるとの結論に至る。
無闇に強制してはならない。全ての強制は不要であることを大前提として、慎重に構築していくしかないのだ。当然それができるにこしたことはない。そこで、命令する側の行為所与に着目しよう。
・強制する側の所与に着目する
まず、危険な人に対して危ないと叫びたくなる他者行為所与を人は持つから、母親は子供がサボっている、勉強させなければ、という行為所与を印象づけられている。このため子供に優しくしたいというイメージより先んじて、勉強しなさいが出てきてしまうのだ。
では、この他者行為所与どこから来るのか。これは勉強していないことへの不安感と合わさっている。
さらに言えば、勉強をすることの不快さより、将来稼げなくなって苦しむ不快さや、社会体により悪く見られることの不快さが大きいという信念を持つ。
こうして本人のためと考え、それを真の正しさと考え、不安感から「労働」させてしまうのだ。このとき、心理的リアクタンスが……と考える余地が所与されていなければ入り込む隙がない。
この根底にあるのはやはり、「労働」の天動説である。この時にある価値観は、ある「労働」は他の「労働」でしか軽減しえないという信念である。
いや、それがもしも本当に真に正しく行えれば「サイキングアップ」、アンチワーク哲学のいう「粋」となる。だから、相手に苦痛イメージつまり、やりたくないことをさせることをやめればいいのだ。
相手がやりたくないのにやらせようとするのは、よほどそれ以上に価値があると別の所与を受けているからに他ならない。そしてそれもまた所与だ。だから、後から良心の呵責に苛まれることも多々ある。
つまり相手に「労働」を与えるのは、社会が凄く「労働」することを前提とし、その緩和のためには相当な「労働」が必要であり、それより軽減できないという信念なのだ。
これが所与の段階で身についてしまっているため、論理・倫理的に考えて、天動説を地動説にすることが難しくなっていたのだ。
つまり、論理的に疑う余地のないことに真っ向から反対し、トロッコをわざと人が多い方に舵を切るような『humankind』に否定された性質が人間の本性ではない。
怒鳴る人間はそれが相手のためでもストレス発散のためでも、相当な「労働」がより大きな破滅的な「労働」を無くすのだと信じている。それが他者行為所与からみた強制の理由であった。このように他者行為所与から考えを膨らませることができる。
ただこんなことは日常心理学でも演繹できるという反論ができるだろう。これに対し行為論は、「これらイメージが所与である」ということを訴える。
・「労働」の天動説と地動説の違いとは?
さて、再びなんちゃって分析哲学に戻る。社会がそうなっていると主張したり、客観を論ずるのは本体論であり、直接見ていないものは他者行為所与と主観の連鎖からしか語ることはできない。それでも、社会の側からも同じことが主張できる。
この「労働」への信念は、もはやナチスドイツや共産主義革命もかつての死の権力や虐殺もそうだったと考えることができる。酷く殺さなければもっと酷く社会が崩壊する。このイメージが彼らを酷くさせていた。その集団の範囲によって仮の豊かさと仮の正しさは作られていたのである。
これが現代でも勉強しなさいから、就活などの様々な場所に散りばめられている。そして人々はこれに酷く疲れ苦しんでいるのだ。
しかし、まさにその苦痛が必要とされる場面は極めて限られている。社会にある多くの苦痛がなくなれば社会は良くなる。それに対し、いやこの苦痛だけは〇〇という理由で必要だ……と苦痛がないことを前提にないほうから議論できれば地動説である。この地動説になれなかったことが何世紀も人々を苦しめてきたのだ。
つまり、地動説と天動説を分けるのはそもそも倫理的か?以上に、どれだけ社会から「労働」を無くせると信じているか?だと言える。
だから労働短縮論は天動説であり、労働撲滅論は地動説なのだ。とはいえ、労働撲滅論もBIなどより小さな「労働」つまり、真の正しさを主張してはいる。ようは「労働」とは抜本的に、つまり公正に解決可能であり、そのように考えた方が議論上効率的であるとするのが地動説なのだ。
つまり、天動説は「労働」をトロリー問題として捉えて、地動説は「労働」をトロッコをわざと人が多い方に舵を切る行為として捉える。
当然人間は生活する上で多くのトロッコをわざと人が多い方に舵を切る行為をしている。「労働なき世界」でもアリを踏んづけて遊ぶ子供も現れるだろう。そして、人もまたそれらのアリのように「労働」させられることがあるかも知れない。しかし、その時は程度問題と捉えて、その社会ごとに真の正しさを構築すればよい。
このようにして、「労働」を強いる者に対して「反労働」という最小限の「労働」つまり、真の正しさだけがあればよいとするのが、地動説なのだ。その真の正しさもまた最小限の労働でいい。そしてそれが今のところBIだとアンチワーク哲学は主張していると考えられる。つまり、労働短縮論だとしても、極限縮小な労働短縮論であれば、地動説である。
もっと言えば、どこかで「労働」のラインを設定し、その「労働」のラインを高く設定し過ぎていることが問題なのだ。それがもはや「サイキングアップ」と同程度かそれを下回っているなら、暫定的な地動説となる。当然議論の効率から考えて、強制はないほうから考えた方が効率がよく、このオッカムの剃刀を用いていないから、地動説そのものと呼ぶことはできないにせよ。
以上から、「労働」の天動説は、「労働」縮小のラインを高く設定し、社会にその価値観を凝り固める効果があった。当然、「労働」の価値観は倫理から考えて地動説でなければならない。
ということは、これからの「労働」のコペルニクス的転回に必要なことは「労働なき世界」への信念である。これを人々が他者行為所与の段階で持てるようになった時、本当の「労働なき世界」が達成される。これは相手に申し訳ない、相手に労わろうといったイメージから呼び出すことができる。これが強制されたイメージを持たない「粋」となることを分析的アンチワーク哲学は目指している。
おまけのおまけ:分析哲学について
分析哲学とは、おおよそ言ってしまえば論理実証主義+言語ゲームである。あらゆる言語は1:1対応か、1:複数の対応をしているから、論理実証主義と言語ゲームを合わせれば全ての言語を包括することができる。そして、あらゆる哲学はそれがどのような立場をとるにせよ、言語によって記述される。このため、分析哲学は哲学者が哲学という手段を使う限りどのような立場でも避けては通れない道なのだ。分析哲学とは、分析的マルクス主義や分析的形而上学を代表とするように、その分析元の価値観を論理的に徹底的に叩きのめす作業である。つまり、あらゆる哲学は全て非常に深く分析されていなければならない。このため、哲学とは非常に言語的に理に適ったものでなければならないのだ。つまり、分析哲学は最強にして不可避である。しかし、これはその哲学することを、その実証をより困難にするものでもあった。そして、物事を厳密かつ正確に記述しようとする試みは必ずしも真に正しいものではない。その上でも、分析哲学が最強かつ不可避を謳うならば、どのようなアプローチをもって哲学を叩いて鍛える作業をするべきか。分析哲学自体もまた問われているのだ。