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会うということ

親しい友人を病に奪われた。
現実を受け入れようと、綺麗な言葉で納得させようとしても「奪われた」という感情が最も正直なところだ。

葬儀の日お別れに行くと、彼の笑顔は映像となって壁に映し出され、見上げる私と目が合った。
「ねぇなぜそんなところにいるの?ねぇこっちだよ。みんな来るよ。」
次々と喪服を着た仲間が到着しても「自分は誰の葬儀に来てるいるのだ?」と、この思いが付き纏っていた。

「お顔を見てお別れができるそうですよ」
その言葉に葬儀会場の中へ進み、場にそぐわない「我先に」と急く( せく) 気持ちを抑えながら、私は棺の前にできた列に並んだ。

私は彼に「お疲れ様」と伝えた。
たくさんの強敵と、もの凄く闘ったから「お疲れ様」だ。
いつもお互い忙しく仕事をしていたし、やっぱり2人の間には「お疲れ様」この言葉だった。

その夜、私は夫と自分の「最期の顔」を葬儀に来た人たちに見て欲しいか、欲しくないかについて話した。

夫は「そんなのどっちでもいいよ。死んでしまっているんだから自分はわからないし、死んだあとにやっぱり見せなければ良かったなんて後悔できないでしょ。見たい人がいるなら見せてあげればいいんじゃないの?せっかく来てくれたんだから。」と笑っていた。
絶対こう言うだろうと思った。予想的中ピンポン大正解。

私は「見ないでお別れして欲しいかも。元気だった時の私の笑顔をずっと憶えていてもらうのがいいかなぁ」とナルシスト的な答えを口にしたのだが、やっぱりその後で考えを変えた。

あの葬儀で彼にすごく会いたかった気持ちを思い出したから。
人は本物の「その人」に会いたいんだと思う。
お気に入りの芸能人など本物に会えたとしたら、それはその人にとって人生の歴史に残る凄いことだろう。

たまらなく彼に会いたかった。たとえ闘いに疲れた姿でも、葬儀でのお別れは本物の彼に会える最後の最後のチャンスだったから。


本物がそこに今「いる」ということ。
「会いたい」という感情。
これがあの時の「お顔を見てお別れができるそうですよ」この声でせきを切ったように、私の胸の中になだれ込んできた。

還暦を過ぎた私は「終活」という言葉が時々耳に留まることが有るけれど、それでも自然体でいたい。
理屈ではない感情や思考は、何かに遭遇したその時に突如として現れるから、準備は難しい。

まぁ子どもに迷惑をかけないようにしたいが、これもその時が訪れてみないとわからない。

ただこれからは誰かに「会いたい」という感情を大事にしたいと思うようになった。
彼が私にくれた贈り物。

本物のその人に会いたい。
葬儀が同窓会になる私たち還暦夫婦。

#還暦 #還暦夫婦#終活#会いたい#葬儀

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