日本の戦争文学/小島信夫「小銃」
1952年の作品。全部で6章からなる短編。筆者の手にしている「新潮現代文学」だと2段組9ページ。
先にまとめるとかなり残酷な話だ。
しかし作中にそれを読み取らせない仕掛けがあり、注意しないと見落とす。
一.愛着
(タイトルはあくまで筆者によるもの、本来は漢数字のみ)
最初の一文。
「私は小銃をになった自分の影をたのしんだ。」語り手には「さがしあてた自分の小銃の這(は)う地面が、なつかしく、故郷のように思われる」―語り手は「小銃」に並々ならぬ愛着を示す。
「蒙疆(もうきょう)の地区では」(日本が内モンゴルに設立した傀儡国家。満州国を連想するといいか)「春さきになると黄塵(こうじん)の竜巻がおこり空を駆けてくる。」この砂のため、「銃の手入れはいっそうはげしくなる」。
「私は、キラキラと螺旋をえがいてあかるい空の一点を慕う銃口をのぞくと気が遠くなるようだった。」
「それから弾倉の秘庫をあけ、いわば女の秘密の場所をみがき、銃把をにぎりしめ、床尾板の魚の目(略)の土をいじり出し、油をぬきとると、ほっと息をついで前床をふく。」―やはり語り手の「小銃」への深い愛着が感じられる。
ここで語り手は銃に触れる「たびに(略)ある女のことをおもいだした。」「おもいだすために銃にふれた。」―ここで「小銃」と「女」が結びついていることが分かる。語り手は「二十一歳で内地をたつとき」「二十六の(略)人妻に(略)あたえられ得る最大のことをのぞんだ。」
それは何か。「夫の子供をやどしている女を、実家へ送りとどける途中(略)寒駅の古宿で(略)七カ月にふくらんだ白い腹をなで、あちこちの起伏、凹(へこ)みに顔をむせばせるだけで別れた。」「漠然とした手ざわり、匂い、それから黒子(ほくろ)が手がかりであった。」
またこの前に小銃の描写に「黒子のようにぽっつりふくれた(略)ボツ」という文がある。ここでも女と「小銃」が語り手において重なられている。
その後も語り手は小銃を「にぎりしめ」ると「いたいいたい慎(しん)ちゃんやめて、むりよ」―「そういう声がきこえるようだった。」と語る。ついに「小銃は私の女になった。」とまで言う。
あとは「射撃にかけては、同年兵で私の上に出るものがなかった」という一文を覚えておけばいい。
二.殺害
「初年兵の一期の訓練が終わるころ、古年兵が討伐から殺気立って帰ってきた。」の話。
語り手は「穴を掘る」―塹壕か。「その作業が終わったころ、妙な一隊があらわれた。」―「シナ」(中国)人の男女七人である。
語り手は分隊長に、そのなかの「腹のところ」が「心もちふくらんでいた」女―妊婦を殺すよう命じられる。
彼は「駆けだ」すが「その百メートルがいつまでもつづくことを願」う。
「本能的に私は呼吸をしずめかまえた。かまえる相手が、標的ではなくて、棒杭(ぼうくい)にしばりつけられた女であることをほんとに感じたのはその時であった。私はかまえた。命令は動作を強いるしかけになっていたのだ。」
ここで女の声が聞こえる。「内地」の女。
「この子があんたの子供であったらいいの。そう思うの。でもね、これだけにして。きっとかわいがられたくなるの。そうなったら、おしまい。私はおしまいになるの。ね、わかる。」
彼は銃で撃った女をさらに銃剣で刺し殺すため走る。「走りつづけるうちに私は道具になり、小銃になり、ただ小銃に重みと勢いと方向をあたえる道具になった。習いおぼえたように、ふみきると、私の腕はひとりでにのびた。私の任務と演習は終わった。」
「「りっぱだ」
「すごい。一発だ」
大矢班長はほこらしげに私の肩をたたいた。
「おまえもこれで一人前になった」」
彼には「こんこんと怒りがわきおこって」くる。しかしそれは「私をたぶらかし、射的から殺戮(さつりく)にとすりかえたこの道具にたいしてであった。」
妊婦殺害の前後で、語り手の「小銃」は愛着の対象から怒りに変わる。
三.堕落
ここは大きく省略する。語り手は小銃を「男の生血を吸う娼婦のようだ」と思い、「私のなかの内地の女は死んでしまった」と語る。彼は「朝鮮女を体力のかぎりをつくして喜ばせることに憂身をやつしだ」す。そして「新しい見るからに下品な小銃」を手にする。
「もはやこの小銃は私の憎悪をふくんだ未練の気持ちにもあたいしなかった。」
四.崩壊
「ゆがんだ小銃と、ゆがんだ心とからだをもって私は原隊へ帰ってきた。(筆者注:性病のため語り手は病院にいた)」
彼は班長に「つっと膳を(略)中庭の石だたみの上に投げすて」られ、その後も「私の小銃の遊底が誰かのものと入れかわり」そのため語り手は「営倉に入れられ」る。
彼は「射撃大会」に「連隊の名誉のため」出るも、小銃を「ねらいもせずにぶっぱなし」「零点に近い点をと」る。
(五章は四と六の間をつなぐ部分があるので省略する。語り手は隊列についていけず「ヨイショ、ヨイショ」と他の兵士から「揶揄(やゆ)するような声」をかけられ、それを「小銃の悪魔が私をさいなむ声に」聞きとる)
六.虚無
語り手は「自分の小銃を焼き払おう」とし、班長に切りつけられる。「手もとの銃をとりあげてそれを防」ぐが「銃の引金に私の指がひとりでにかかったのであろう(略)相手の腹を射った。」
「終戦の翌年、私は天津の貨物廠(かもつしょう)で海をわたる日を待ってい」る。語り手は「シナ人の使役をしてい」る。
そのとき「(略)握りしめた掌(たなごころ)の中で何か血の通った感じ」を語り手は覚える。それは最初の小銃だった。「鉄の部分はみんなさびていた」が。
語り手は「あの女はどうしたろう」と考える。
最後、「シナの兵隊のなぜか私をにくむ目がせまってきて、さっと鞭がひらめいた。」―この一文で「小銃」は終わる。
感想としては、かなり悲惨な話だ。それが一見―というか数年前の筆者は―「ユーモアとともに」軍隊の悲惨を書いた、と思ってしまった。なぜか。
作中の「女」の存在に騙されるというべきだろう。小銃に女の姿を見る男。これだけ見れば確かに笑い話、「ユーモア」だ。
だが彼は戦争のなかにいる。妊婦を殺す。朝鮮人の性奴隷を犯す。そうした暴力のなかで、人は一個の「主体」を構築できなくなる。より原始的な「生き物」に近づく。作中の一文、「走りつづけるうちに私は道具になり、小銃になり、ただ小銃に重みと勢いと方向をあたえる道具になった。習いおぼえたように、ふみきると、私の腕はひとりでにのびた。」はそれをよく示すと思う。
語り手の「女」への語りはむしろ、「主体」の無力を示す戦争からの逃避としてある気がする。改めて読んでそう思った。
また語り手の「小銃」へのフェティシズム的な愛着も、「全体」を捉えられない戦争のなかの個人の象徴と読んでもいいかもしれない。
(追記)小島氏の短編に「無限後退」というものがある。記憶の限りだが、戦わず、後退し続ける奇妙な兵士たちを書いた短編だった。
「小銃」は不気味だ。筆者も読んでいて怖くなった。何がこんなに怖いのか。
それはおそらく、自分がどこまでも細分化され、何者でもなくなってしまう―この語り手が「小銃」の付属物になるように―ことへの怯え、退化し、滅びることへの原始的な怯えなのだと思う。後退し続ける兵士たちがやがて兵士でさえなくなるように。