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青山七恵「かけら」

この世には評価をしかねる小説がある。

たとえば、三島由紀夫「絹と明察」はどう考えても駄作だ。あれが傑作なら私は明日すべてのケツ毛をアゴに移植する。
逆に、「金閣寺」は傑作だ。最後の展開に筆者は文句があるが(突然謎の僧侶が謎のセリフを言う、嘘だと思ったら読んでほしい)。

と考えたときこの作品はどちらなのか。それがわからないので書く。

話は、ゆったりした日常風景に終始する。
「わたし」の母親が予約したさくらんぼツアー。
しかし兄夫婦の子どもが熱を出し、母親も残ると言う(兄妻は家出中だ)。

それで、「わたし」と父は二人きりでさくらんぼツアーに出かけるのだが……。

まとめとしては、「父と娘のストーリー」でいいのだろう。
まず面白いのは結末に「カタルシス」がない。
最後の一文は

父の視線は写真をはみ出して、雲の切れ目に薄い色の星が浮かぶ東の空に向かっている。

「かけら」p41

これは「自分が食べる間もな」く「群がるおばさん」たちにさくらんぼを取る父の姿を、「かけら、っていうテーマで」写真を撮る課題を抱える「わたし」が撮った写真の描写だ。これだけ見て結末部の文章とわかった人はいないだろう。

写真の外の「薄い色の星が浮かぶ東の空」が果たして何を示すのか今ひとつ読みきれない。
しかし、これは筆者に問題があるというより、作者青山氏の描写が初めから(おそらく意志的に)曖昧なのだと思う。
筆者としては、単に写真の父が空を見ていた―それだけの描写であり、それ以上に読む必要はない(オープンエンディングな)終わりかたという読みでいいと思うが。

作中、「父」の姿は、一貫して「わたし」からの視点から捉えられる。
その結果、父の人物像も「わたし」がそう感じたように曖昧なものだ。
「キャラ立ち」という観点から見ればペケかもしれないが、実際現実世界にはこの父(名前:「遠藤忠雄」)のように今ひとつ性格を掴めない人間がいる。それを小説で書くのは意外と難しいことだと思うのだが。

「かけら」というタイトルが示すように、人の総体としての―トータルな人格を掴めるというのは幻想であり、私たちはその人の「かけら」の姿を見るだけで満足するべきなのかもしれない……なんだかポストモダン的だ。

と、一応それらしい感想は書いたものの、
なんとも掴みどころのない短編だった。
ただ、読後感は悪くなかった。なんだか頭に残る話だ。よければぜひ。
(追記)

(略)父が一人前の男として人の役に立っているのを見るのは、突然人間の言葉を話し出した犬猫を見ているようで、好奇心が勝って目が離せない。

「かけら」p23 

娘が父を「犬猫」に例えるのは辛辣で、でも同時にすてきな描写だと思う。

(追記)改めて一文一文が丁寧に書かれている上質な短編だった。
細部描写に対して全体をまとめる主義主題がなく、それが「日常」という緩やかな生の時間を示すとき効果的なのだ。
筆者は思うが、この父と娘はお互いにわかり合う日は来ずとも、わかり会えないままこうして生の時間の共有を行うのではないかと思う。
その、「あいまいさ」こそ、この父と娘の関係を示す言葉であり、この作品の魅力かもしれない。

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