M3GANと多崎つくる―娯楽作品を情報量から読み解く/蛇足①

※性的・暴力的な話題を含みます





前書き

筆者には苦手なタイプの作品がある。
①明白な悪役が存在する
②その悪役の排除をめぐって物語が進行する
この二つ。
例えば世界を核の炎で焼き尽くそうとする悪役や、新人イビリの好きな部長……昔やってた「スカッとジャパン」みたいな。
 
嫌いな理由は複数あるが、まずは
A.特定の属性を「悪」と断ずる傲慢さ
だ。
仕事のできない上司は、妻が自殺未遂をし娘は未成年の妊娠中絶と、生の深い困難のさなかかもしれず、核で世界を滅ぼそうとする悪役は根深い暴力への恐怖を裏返しに持っているのかもしれない。
◯念の為言っておくと、筆者はウルトラマンやプリキュアなどは普通に好きである。
あれらは悪役の排除が目的ではなく、そのフィクション内で善とされる固有の価値観(共感性、勇気など)の提示が目的であるため。筆者が嫌いなのは、そうした善や正義に値するものをあいまい化したまま、「悪を排除しろ!」「敵を殺せ!」と叫ぶ類の作品である。
それは善と呼びうる何物をも提示できない小悪党どもの詐欺の手口である。

次に、
B読者・観客にとって不快
である。
例えば、こんな話を想像してほしい。
①一人の少女がいるが、彼女の両親は凶悪殺人犯に殺されてしまった。②彼女は児童養護施設に送られるが、いじめの標的となる。③彼女は両親同様に自殺する。 
……確かにエドワード・ゴーリーの絵本で見た記憶があるが、できれば、筆者はこんな話は見たくも聞きたくもない。

少し前、桜庭一樹氏の「紅だ!」(山盛りのポップコーンが欲しくなる小説だ)の記事で述べたが、基本的に娯楽作品とは明白な
a.プラスの情報(謎めく美女、気の置けない親友、不思議なお宝など)
b.マイナスの情報(多額の借金、手痛い失恋、苦い敗北など)
がそれぞれ提示され、その両者がストーリーとして発展/解消されることで成立する。

そして、できれば発展されるプラスの情報は多く、解消されるマイナスの情報は少ないほうがいい。単純に読者や観客に負荷をかけるからだ。
(ただドラマツルギーとして見せたい・見せるべき対立構図がある場合はこの限りではない)

ところが、マイナスの情報―明白な悪役を展開し、それを軸に物語を進めるやり方は、簡単なのか、しばしば目にする。
そうした悪役の多くは母親の腹をナイフで切り裂いて生まれたように性格が悪く、主人公一味にひたすら嫌がらせを続ける。
確かにこの世には「世界いじわる人間チャンピオン」を目指して猛特訓に励む努力家が―我々が想像するよりは多く―いる。
しかし彼らをフィクションの世界に持ち込み、犬をけしかける作品は、筆者は好きになれない。
何より、見終えた後、
C後に何も残らない
ではないか。

マイナスの情報が解消されることには確かにカタルシスが伴う。私たちはもう核の炎に焼かれなくて済む、不要な労働からは解放された。
だが、その後には何も残らない。
当たり前だ。作品内で、善や正義を担うはずだったプラスの価値観が提示されず、ただ、悪や無能とレッテルを貼られたマイナスの価値観の糾弾のみに勤しんだ結果、その後には何も価値あるものが残らない。

筆者は、フィクションは基本的には何をしても良い場所だと思っている。
しかし、読者や観客に固有の世界観を手渡すことだけは作者の一つの義務のはず。
すなわち、その作品内において読者や観客が善きものと信じ得る何かを、作者は一つ提示しなければならない(もし作中に登場しなくとも、見終えた読者や観客に喚起できればよい)。
善とされる価値観は、チープな道徳や男と女のキッスでも(できれば勘弁してほしいが)構わない。

ということで、筆者がなぜこうした作品が苦手か理解してもらえたと思う。
そして本記事は、苦手な作品の構造を分析し、改善案を考える目的の下に書く。
扱うのは、
ジェラード・ジョーンストン「M3GAN」
村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年」
「M3GAN」の問題点を始発点に、「多崎つくる」(以下略)の問題点を炙り出してみたい。

M3GAN

「M3GAN」はAI搭載の美少女人形の名前を指す。
わかりやすく言えば美少女版ドラえもん(試作型)みたいな感じ。

で、本作の主人公は、このM3GANの開発者ジェマと、その姪っ子ケイディ
ケイディは両親を自動車事故で亡くしていて、ジェマはその身元引受人となる。
ところがケイディは幼少期の死別体験からまもなく、強い自閉性や攻撃性を示してジェマを困惑させる。
困ったジェマはケイディにM3GANを充てがう。
するとこれが功を奏し、ケイディはみるみる元気に。ついでにM3GANも大ヒット、ジェマは大喜び(アメリカは訴訟大国であり、下手すると開発会社から訴えられていた)。
ところがM3GANはケイディへの過度な親しみから、犬に始まり、ついに人間を殺す。恐るべしM3GAN。
だがケイディとジェマは最後にM3GANをぶち壊し、ついでに二人の仲も改善されて、ハッピーエンド。

筆者はホラー映画に詳しくないが、まあ典型的なB級ホラーだろう。
こうした、いわばお化け屋敷の如き映画は数多くあるし、本作もその定められたレールを一直線に走っていく。
にもかかわらず筆者が本作を槍玉に上げた理由は、作品内の個々人の心情描写があまりにご都合主義だからである。
結局、ジェマの開発失敗も、ケイディの両親の死と幼少期逆境体験も、要はM3GANに(犬)人殺しをさせるための、単なる舞台装置でしかない。
だから、彼らの性格や心理は実質なく、全ては「AIの暴走」という手垢のついたテーマを展開させるための駒でしかない。

だから本作は、
「某月某日、大人気商品となるはずだったM3GANに致命的なプログラムエラーが発見され、発売が中止になりました。
具体的には所有者への愛着プログラムが暴力行為の禁止プログラムを上書きしてしまう問題が確認されたとのことです。
開発者のジェマ氏は『このような騒動を起こし、大変申し訳ない』とコメントしています。」
と、三行記事で要約できてしまう。

結果的にはひたすら暴走するM3GANが恐ろしいだけで、映画である必然性がない(しかもB級ホラーの愛嬌すらない)。
つまり本作には、ドラマツルギーは存在しないし、ストーリーはご都合主義で、結果、何一つ作品を成立させるものが存在しない。

色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年

同様の問題は、村上春樹氏の「色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年」にも見受けられる。
本作は、シロという女性からレイプされたと告発を受け、かつての友人たちから一方的に絶縁された―実際は無実(確証はないが)の―多崎つくる(友人たちの中で彼一人名前に色がないので「色彩を持たない多崎つくる」)が、彼女の沙羅に言われるがまま、迷惑なことに、かつての友人たちを十六年ぶりに訪ねる。

シロがなぜ多崎つくるにレイプされたと嘘をついた(レイプ自体は本当にあった)かは後半も後半になって、かつての友人クロの口から「シロには「悪霊」がついていた」と説明される。
「悪霊」とは何か。
それはおそらく、理解も共感もできない―その前で個人が固有の物語を作ることさえ困難な―巨大な暴力(第二次世界大戦や地下鉄サリン事件など想起するといいかもしれない)の象徴だろう。
そして本作はその「悪霊」に、自己の生を致命的に破壊された一人の人間多崎つくるが、その生をもう一度物語り直す巡礼と祈りの物語なのだ。
たぶん村上氏のイメージした「色彩を持たない多崎つくると、その巡礼の年」(理想)はこうだったのではないかと筆者は思っている。
もうちょっと話すと、本作のシロと多崎つくるは対関係にあるのだ。
シロは嘘をつくことで多崎つくるの生を破壊し、自己の生も破壊した。
そして多崎つくるの自身の生を取り戻す過程は、シロの生の再確認でもある。
(例えば「ねじまき鳥クロニクル」のクミコの失踪が致命的に岡田亨を損ない、また岡田亨の決死の捜索が結果的にはクミコを(わずかに)救うように)

だから本作ラストで沙羅が別の男性と関係しているらしいのも(あくまで個人的な見解であるが)多崎つくるという男の中にシロという精神的双子がい続けた影響だったのではないかと思う。
それなら、沙羅が多崎つくるにかつての友人たちに会うよう促すのも理解できる。

問題は、こうした主題性(ドラマツルギー)が、一切読者の納得可能な形で提示されないことにある。
本作、素材は言うほど悪くない。だが調理が壊滅的なのだ。

①まず、話の筋に無理がありすぎる。
いきなり十六年前絶縁した友人に、彼女に言われるがまま会いに行く多崎つくるの行動原理は―これはストーリーテリングで充分説得力を持たせられたはずだが―納得しにくい。

②その友人たちにつくるがすんなり会えるのも謎だ。
それにアカとアオ(どちらも男)と会う場面はドラマツルギー的な盛り上がりも、ストーリー的な豊かさも等しく欠いている。
(だいたい、十六年前不確実な情報を元に縁を切った友人などそのまま美しい記憶の縁取りとして永久凍結されていることを筆者は望むし、それは多くの熱くも冷たくもない我ら大衆に共通する感覚だろう)

③使用語彙が不自然。ケミストリーだのエロティックだの、石原慎太郎の生霊が呪いをかけたとしか思えない。

④労働のリアリティが皆無。 
ちょっと狡い言い方になるが、村上氏はいわゆる「いい時代」を生きられた方だ。
それは不可抗力だからいいんだけど、恵まれている自覚が微妙に抜けてるのが腹立つ。
アオはレクサスの販売員、アカは自己啓発セミナー、クロはフィンランドで夫と陶芸をやっているが、人間がこんな呑気に生計を立てられる時代は数十年前に終わった。
(正直、村上氏の書く労働者のリアリティはあった記憶がない)

⑤多崎つくるはセックスのことを考えすぎ。いい歳した男が乳首だの陰毛だの妄想している様は―お世辞にも―美しくない。
本作では性描写は省き、読者に委ねたほうが、より死の硬い手触りが作品の主題として浮かび上がってきただろう。
(あと、いい加減女を書くとき胸の大きさに言及するのをやめろ)

⑥多崎つくるの友人関係(いわく「ケミストリー」)に、多崎つくるが十数年も未練を抱く説得力がない。

(ラグビーは雨が降ってもプレイが行われる話をしている)アカが(略)「ラグビーの試合は(略)雨が降っても中止にならない。(略)毎年多くの選手が競技中に溺れて死ぬ」
「なんてひどい!」とシロが言った。
「(略)冗談に決まってるでしょうが」とクロが(略)言った。

p13.14.

正直この程度の会話しかできない友人関係など、いない方がマシではないか。
ましてや十数年も喪失を悔やむ訳がない。
これもストーリーテリングの失敗である。

⑦灰田のエピソードの必然性が不明。
なぜかつくると同性愛的な関係を結ぶ性夢に出てきて、緑川という謎のピアニストの話をし、突然いなくなる。
正直、灰田のエピソードは全て破棄しても本作は成立するように思う。

⑧本作は―意図してかは判らないが―ミステリー小説の構造を使用している。
その割には謎が解き明かされない。
これは書評家の豊崎由美氏が言っていたことだが、「1Q84」でもファンタジーの構造を使いながら細部が雑である。
これはジャンルもの・娯楽作品を軽視していると取られても無理はないのではないか。

⑨シロの嘘が「レイプ」である必然性が弱い。
性暴力は現実世界において多くの犠牲者を(今日も)生み続けており、フィクションでもなお、扱うには相応の必然性が求められる。
ただ本作では、その内実(女性にとって強者である男性からの暴力の恐怖感など)は深められず(友人だったクロの語りで多少補完されるが)、あっさり鎮魂ムードに流れていくのが納得しきれない。


……と、はっきり言って失敗と問題のオンパレードである。
ひとまず女性関係の描写の化石っぷりを何とかできないのか。
それから、本旨とずれるが村上氏の作品で、男たちが必ず一人で悪や暴力と立ち向かうのはなぜなのか。
村上氏は恋人や夫婦が、二人で手を握り合いながら暗闇をすり抜ける物語は書かないのだろうか。


まあ結局本作も「M3GAN」同様、

「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ」(略)「僕らはあのころ何かを強く信じていた(略)。そんな思いが(略)虚しく消えてしまうことはない」

p420.

という訓示を垂れるためだけに、シロはレイプされ、多崎つくるは死に損ない、友人たちは大なり小なりモノクロの人生を受け入れて生きる羽目となったのだ。

本作の読後感は午後七時に目が覚めた土曜日のようだが、その理由は、作中で与えられた負の情報(①多崎つくるが親しい友人たちに絶縁され、②シロは「悪霊」に取り憑かれて死に、③沙羅は二股疑惑アリ)がろくすっぽ解消されない(カタルシスを迎えない)まま、上記の訓戒だけ残される消化不良感に多くを負うだろう。
要は本作は「M3GAN」が恐るべき殺人ドールで空疎な話を引き伸ばしたと同様、シロの死と冤罪のレイプという不愉快な情報を中心に話が不必要に長たらしく進み、かつ、➉「悪霊」に対抗する善の創造に失敗している。

そう、筆者が最も問題視するのはこの点である。
正味、ストーリーの面白さや明白なカタルシスは、主題性が重要な文芸では、なくても構わない。
だが、性暴力と個人の死への接近というその肝心の主題性が(筆者の読む限り)放棄されているのは看過できない。
主に二つの原因が考えられる。
①ストーリー性の過度の重視
②明白な結論

①ストーリー性の過度の重視
村上氏は元々、「物語」の力に強い関心を抱かれた方だ。
それは「ガープの世界」のジョン・アーヴィングや、「ニュークリア・エイジ」のティム・オブライエンといった作家への傾倒からも伺える。

話が少しズレるが、昔、筆者はなぜメルヴィルの「白鯨」がこんなに長いのかについて面白い話を聞いたことがある。
著者は忘れてしまったが、いわく、当時はロマン主義の暴風雨が吹き荒れており、即ち理性と認識よりも感情と感覚―というか天啓と芸術的霊感(?)が重んじられ、結果、作品は論理的な構築性をうっちゃり、めちゃくちゃ長くなった、とか。
なお、この悪しき伝統を断ち切ったのがエドガー・アラン・ポー―ご存じの通り理性と認識を旨とする探偵小説の発案者である―と聞く。
つまり何が言いたいか。
作家の「天啓」だの「芸術的霊感」だのに任せて作品を書くと、話が間延びするのだ。

筆者は強調するが、一般に小説はストーリーとドラマツルギーから生み出される。
ストーリーは華やかな飾りであり、ドラマツルギーは家計簿である。 
詳しくは以下の記事で書いた。

最近の村上氏の作品は飾りは華やかだが帳簿の収支が合わないダンスパーティーのよう。
踊っている間は楽しいが、幕が開け、騒ぎが終わると、始末に負えない破綻が次々顔を出す。
なぜそうなるのか。
作品世界は、最終的に厳密なドラマツルギーの構造によって支えられるからである。
本作なら、シロ(死者・過去・夢・暴力の象徴)/沙羅(生者・現在・現実・日常の象徴)が対立構図となり、多崎つくるは両者の間で揺れ動く。
(確かに昔クリスマスカラーの森で見た気のする構図だが悪くはない)

筆者は堂々提言するが、本作に欠けているのは多崎つくるが沙羅を取り、シロを棄てるドラマの明白な決着である(もちろん逆でもいいが村上氏の作風ではないだろう)。 
本作には、いっそシロの幽霊でも出せばよかったのだ。
多崎つくるは真夜中、シロの自殺したマンションのそばの公園でシロの幽霊に出会い、そのままシロと共に死のうとする。(死への接近)
しかし突如沙羅が現れ、多崎つくるを強く抱きしめる。多崎つくるも沙羅を抱きしめる。(生への帰還)
二人は近くのホテルに泊まり、愛を確かめあう。朝の光が二人の頬を照らす。 
(素晴らしい。私がこの小説を書くべきだった)

本作、シロと沙羅と多崎つくるがいれば話は纏まる。残りの、アオ、アカ、クロ、灰田、緑川……などは不要である。
不要とはそのまま、「ドラマツルギーに貢献しない」という意味である。
「M3GAN」も、もし筆者ならジェマもケイディもより愛しがたい人物として描き、M3GANによる殺害を美化する。
非人間性・美/人間性・醜のドラマを作れば―押井守監督の「イノセンス」みたいだが―もう少し面白くなっただろう。

②明白な結論
「蜂蜜パイ」(昔読んだときは感動したが今は女の書き方が酷くて読めない)から、村上氏は作品の最後に明白な結論を置くようになった。
はっきり言って、悪手だ。

これも(個人的には)村上氏のドラマツルギーへの軽視から来る問題である。
要は作品の風呂敷を畳めない(欲望を喚起することはできてもその後が続かない)のだ。なぜなら、作品世界に何らかの決着(一定の価値体系の構築)を持ちこむのは、あくまで物語ではなく、ドラマツルギーだからである。
モラトリアム的に価値が流動する楽しさは物語世界でも生み出せるが、「成熟と喪失」(ある欲望の断念・放棄・喪失が逆説的にもたらす固有の価値体系/ヒエラルキーの成立)はできない。
だから、どのような価値体系を作品の内部に持ちこむのか(本作なら「巨大な暴力がすべてを無に帰す訳ではない」)について、氏の作品ではドラマ的説得性を欠いたまま、作中で言及せざるを得なくなる。
それが氏の後期作品に、俗悪な感動を伴って書かれる明快な結論の正体ではないか。

まとめ

ストーリーはドラマツルギーのはしためでしかない。
その婢に作品の手綱を握らせてはならない。

確かに華やかな物語は欲望の受け皿となり、人々を作品へ引き込む。
だが、逆に言えばそれは精液を吐いたティッシュのように、人情の温かさだの家族の尊さだの個々人の願望や欲望を吐き出され、やがて飽きられ忘れられていく。
それでは単なる消費物に過ぎないではないか。

ドラマツルギーは欲望の殺戮装置/価値の固定化であり、ストーリーは欲望の生成装置/価値の流動化である。
そのため物語への過剰な信仰は作品をティッシュの山に変えてしまう。

筆者は表現が単なる読者や観客の欲望の奴隷として首輪をつけられるのが嫌だ。言葉や映像が単なるコンテンツとして消費されていくのが嫌だ。
表現とは、火星人か金星人にだけ伝わる言葉で書いても赦されなければならない。
人間の、俗悪な欲望の奴隷には決してならずに。

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